2013年2月16日土曜日

世界は分けてもわからない

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手塚治虫「火の鳥 未来編」では、
火の鳥がマサトに分子原始のミクロの世界から宇宙までを見せる。
自分たち宇宙の一部であることを見せるのだ。そして、すべてが一体となってゆく。
本書ではイームズチェアで有名なチャールズ&レイ・イームズ夫妻が作った
映像作品「パワーズ・オブ・テン」の紹介があるが、これもまさにミクロの中のマクロの入れ子である。
http://www.powersof10.com/

ミクロからマクロまで、そこを行き来しながら自分の立ち位置を確認しようとする、
つなぐ力を得ることこそが、物事を学ぶ理由だと、私は個人的に思っている。 

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この福岡伸一著「世界は分けても分らない」にも、同じようなことが書いてある。

著者が「何故勉強をしなくてはいけないのですか。」と問われて
若い頃は十分に答えることができなかったが、今は少しは答えることができる、として

  私たちは見ようと思うことしか見ることができない。そして見たと思っていることも、ある意味ですべてが空目なのである。
世界は分けないことには分らない。しかし分けてもほんとうに分ったことにはならない。パワーズ・オブ・テン彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味が無い。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな俯瞰を行うことも不可能である。つまり私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と俯瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。
  滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなくすべらかなのだ。
 そのリアルのありようを知るために私たちは勉強しなければならない。

では、なぜリアルのありようを知らなければならないのか。
それぞれが持つ感覚器官をとおして、刺激と認知によって像を結んでいる個々の世界において、
その世界の住人は実は自分ひとりである。
私たちは、いつも、自分は自分である、ここにいる、ここに在る、と
確認せずにはいられない生き物なのではないか、と思う。
確認自体が生きているってことなのではないか、とも。
よりクリアに詳細に、自分のいる世界を解像したいと思う。



世界は分けてもわからない




大好きな須賀敦子さんについても書かれていて、
実験データの捏造とされるコーネル大学の
マーク・スペクター事件については、
ミステリーを読むようにどきどきして読んだ。







前に、自分で似た様なことを書いてるなと思って探してしまった。
免疫の意味論」とか「生命の意味論」とか。

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