2011年11月30日水曜日

アダムの呪い

入院中に座りながら頭を下げて読む。首が痛くなるし疲れるので一日10分くらいずつ読む。
イヴの7人の娘たちの続編。

イヴの...ではミトコンドリアDNAに関する科学読み物だったが、この本はY染色体に関するエッセイ色強い科学読み物。前半部分のヒトの2つの性について、Y染色体(Y染色体は遺伝子のいわば墓場であるということ)、SRY遺伝子については、前にも何冊か読んでいるのでふんふんと読んでいた。
後半部からの男の発生率を高めるY遺伝子はあるのかという話、mtDNAとY染色体の勢力拡大の戦いの話を農耕社会の出現と絡めるあたりから面白くなってくる。もちろんこれは筆者の考えの域を出ないのだが。
最後に、Y染色体が組み換えで補修することも出来ず(X染色体は2組あるがYは1組なので補修されずそのまま受け継がれてゆく)このまま衰退していく、つまりは男性性の消滅に対してどうしたらよいのかという問題に対して筆者は過激な遺伝子的解決方法を提案している。男性性を放棄して卵細胞へ、精子ではなくほかの卵子の細胞核を注入して子孫をつなげていったらどうか、と。

理論的には分る。でももし、そういう世界に変化していったら、私たちが、今持っている「愛」のカタチも変わってゆくんだろう。文化や習慣も。しかし、男性性が消滅しても「男性に対する愛」の感情の痕跡は何万年も消えないんだろうなと思う。胸がきりりと痛むんだろう。
それまで地球上のヒトの営みが続いていたら、の話だけど。


アダムの呪い













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病院へ見舞いに来た娘が「夢十夜」の百合の花と女性の対比が「めっちゃいいのよー」と学校のノートをめくりながら身振り手ぶりで語り、母は今読んでる本でさ、「女性だけで子孫を作るってそりゃ理論的にはわかるけどさー、そしたら愛の形ってゆーのも変わってくると思うんだよね。」とアツく語った。
ナースステーションの前で母娘二人で手をひらひらさせている姿は、なにやら楽しげだったにちがいない。まちがいない。

2011年11月29日火曜日

動きはゆっくりとね。

葛根湯を飲みつつ過ごしています。

なんと、ふくらはぎが軽い筋肉痛に...。
かなりライト(怠惰)な日常生活なのに。

走る、重いもの持つ、大掃除、顔に力を入れる、ことは禁止なので、筋トレをしていいのもかどうか。
あ、飲酒はどうか、とか化粧はもういいのかとか聞いてこなかったぞ。

実は手術当日、歯医者の予約日だったのに行けなかったので、
予約を取り直し、今日行ってきました。(化粧はいいのか分らなかったので、すっぴんで出かけた)
歯のお掃除をしてもらい、虫歯?と思われるところを診てもらったら、
歯じゃなくて歯茎のほうだった。(うう)
小刻みにやさしく歯茎をブラッシングしましょう、とのこと。

2011年11月28日月曜日

母、帰る。

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実家から来てくれていた母が今日帰りました。
単身赴任中のGさんも会社を休んでくれたのですが、さすがにずっと休暇というわけにはいかず、
母が来てくれて家の中のことを担当してくれました。多謝。

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昨日、久しぶりにコントラバスを触ったら、ぶひひな音になってました。
発表会、練習してたけど参加できなくて残念。
また面白い楽譜を探して練習しよう。

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夜ごはん作りに長い時間(といっても1時間くらい?)立っていたら、ちょいとつかれました。
体力、落ちてます。

そしてお約束のように風邪を引くあたり、よわよわ~。

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目薬3種類を4回ささないといけないのですが、5分以上あけないといけない。
意外と一仕事。
でも病院で聞いたところによると、目薬8種類を4回点眼しないといけない患者さんもいたようで、
1サイクル40分、それを4回って...まるで1日目薬さしてる感じなんだろうなあ。

2011年11月27日日曜日

帰宅。家を出た時の服では寒い季節になっていました。

■■■ 
本日、退院。
2週間、ベッドの上で安静だったので、筋力が弱っているらしく歩くのにもふらふらしています。
(網膜剥離の硝子体手術後はとにかくうつぶせ安静、といわれます。)
帰った早々娘のテスト勉強につき合わされ、「もうだめです。母はお疲れです。」とギブアップしました。

明日から少しずつ日常生活に体を慣らしていこうと思います。


手術、入院の記録は自分向けのメモとして、日付をさかのぼって記録していく予定です。

入院日記14

診察14日:
休日だけどB医師による入院患者の診察。
散瞳してチェック。
「はい、今日退院ですね。今日は首から下の入浴、明日から洗顔、あさってから洗洗ってオッケーです。運動はもちろんだめ、走らない、重いものを持たない、大掃除はダメです。なにしろゆっくり動いてください。旅行もダメね。くっついたからいいもの、かなりな手術だったわけですから、よろしく。」

旅行は遠出はダメだけれど、それは何かあった場合にすぐに診られないためで、12月末に予定していたごくごく近場(自宅より病院へ近いくらいの近場)の1泊はO.K.。

Gさんと母が迎えに来ていて、会計にてお金を払い、ナースステーションで薬をもらう。

ドアが開いてGさんに「外だよ~。」と言われ、なんとなく不安一な歩を踏み出し空気を吸った。

2011年11月26日土曜日

入院日記13

もういいかげん、何もやることありません。寝るのも読むのもラジオも、もううんざり。
同室のおばあさま方の手術前の点滴を見守る。手術室は寒いから着込んでいったほうがいいですよ、とか、今日は何人ぐらいやるんですか?とか。

診察13日:
A,B医師による一通りの診察。
B医師「うん。(退院は)日曜でしょう。その根拠はね、裂孔の部分が瘢痕になってきてるからです。左目、レーザーやってますね。」

心配に思っていたことを聞いてみた。
「手術の前は、眼底が見にくくそのため発見が遅れたんだと思いますが、今回もやはり見えずらいですか?」
「ああ、もうだいぶクリアに見えます。だから眼科医であればはっきり分ると思います。え~ボクわかんない~なんて言ってる眼科医だって分ります。」
「そうですか、安心しました。」(でもそんな眼科医にはかかりたくないっす。)

「こちらで見てみてください。」と言って私の眼底写真を見せていただく。

手術前。この白濁しているところが剥離している部分。
これはまだよく取れているほうで、(にごった硝子体で光が乱反射されるのか?)光が届かないため、眼底の状態が見えない。
手術前、B医師は何枚も撮影にトライし、わずかに生きている神経を見つけて「大丈夫かもしれない。」と言った。





手術後。
「ちょっと暗いんだけど、きれいでしょ眼底。」
「ほんとだ、ちゃんと見えますね。きれい。この写真ください。」
と言ってもらったもの。いやほんとにきれいって思っちゃうんですよ。
ちなみに検査用のカメラはNikonだった。




B医師は私より年上の女性の眼科医。さばさばと明瞭な説明に信頼感あり。

+++
午後、Gさんが見舞いに来てしゃべる。火曜日まで休みを取ったそうだ。
入院費を受け取る。帰ったら保険の申請とかやんないとなー。

+++
手術後のおばあさま方、やはり静かにぐったりしてるかと思いきや、夕食時に感想戦はじまる。
「私、自分の眼の中の手術器具見えましたよ。動きがすごく早いの。...」
お元気です。

私も今回の経験で、こうやって少しずつ怖いものが無くなってゆくんだなあと思った。
心がマッチョなおばちゃんになれるといいな、せっかくだから。
+++(2011/12/2 当時のメモより転記)

2011年11月25日金曜日

入院日記12

空きベッドにが次の入院患者さんでうまった。やはり元気なおばあさまたち。
これまでは大部屋でも私をはじめとしてうつぶせ安静患者もいるためか、各自昼間でもカーテンをひいてもそもそと安静にしていたのだが、

「ねえ、みなさん、せっかく大部屋なんですから、カーテンを開けて一緒にご飯を食べましょうよ。」

との掛け声で一気にピクニックのようなごはん時となった。

私はこういう雰囲気が苦手だし皆さん私の母よりも高齢だし話題も合わないよなー、と思ったもののしぶしぶカーテン開けてごはん。あら、しゃべりだしてみると意外に興味深い話題だったりして。糖尿病食事(つまりはローカロリー)、どこそこの眼科医の評判、夫婦の連れ添い方の話、子供の話、いやいやみなさんほんとにお元気。とはいってもみなさん、眼の手術は重篤な状態で不安も一杯ということを話しておられた。
私が手術前の時なんか、もうしょんぼりしてたのにな。


診察12日:
A,B医師によるひととおりの診察。
B医師「網膜きれいよお。手術のときに取り出した硝子体はにごってどろどろだったけれど、今はすっきりクリアです。眼底も良く見えます。でもまだむくんでいるわねえ。」
 「網膜がむくむってことあるんですか? 」
「そりゃありますよ。まだ厚ぼったい感じです。んー、この調子だと土曜か日曜ってとこね、退院。」
「え。そうですか。じゃあまたがんばって横向きやります!あ、念のため手術しなかった左目も診てもらえますか?」
もっとかかるかと思っていたけど、退院が見えてきたのはうれしい。左目も確認してもらうことにした。

+++(2011/12/2 当時のメモより転記)

2011年11月24日木曜日

入院日記11

朝の目薬の時間に、看護師さんが「電報来てますよ。」と渡してくれた。
おや、今携わっているプロジェクトのメンバーから。
男ばっかりのプロジェクト、やっぱプーさんでしょ的な合議となったのか。
メッセージには暖かい励ましと目標VS達成度の数値が書かれており、
ここにまでこの数字が追ってくるのか...と、にまにまと苦笑い。



着替えを持ってきた娘、
「うほー、このプーさん、笑っていいともでしか見たことないよ。」
「で、頼んだ着替えのヒートテックは?」
「ああ、私が朝ちょっと着ちゃったんだけど、きれいよ。(くんくんと匂いをかいで)、ん~It smells good!!」

さては頼んだものを忘れたな、でもまいいやそれで。(←似たもの親子)

あまりにもあまりにもやることが無くなり、「もやしもん」を持ってきてもらいぺらぺらめくってみたり。



診察 11日:休診
+++(2011/12/2 当時のメモより転記)

2011年11月23日水曜日

入院日記10

本格的にやることがなくなってきた。もう昼間眠れないし。起き上がって本を読んだりしてみる。
毎日体重計にて体重測定するも増えない。3食食べて寝ているだけなのに。

診察10日:
A,B医師にひととおり診断。「んー、剥離ないですね、今のとこ。」
「起きているより横向きに寝ていたほうがいいんですか?」
「そうね、ガスで押し付けるから直りは早いわね。」
「じゃ、そうします。」

とにかく横になることとした。

+++
夕方、娘に着替えを届けてもらう。
いろいろ話しているうちに。
「おばあちゃんがさ、言うんだけどさー。
私が20歳になったらママたち籍入れるとするでしょ、
その時私も同じ苗字になったほうがママは喜ぶよって言うんだよ。これって、どう?」
「いや、別に。あんたの好きにするといいと思うよ。
こっちの都合で籍いれたりするわけだし。もうハタチになったらさ、あんたが望む名前がいいでしょ。」
「でしょおお。おばあちゃん、ママのことなんか誤解してるんだよ。
ママってそういうヒトじゃないと思うんだけど、おばあちゃんの中にはさ...。」
「ああ。なんだかママ像(娘像か?)があるよね、確かに。
でもそれはおばあちゃん自身の希望を私に反映しているんだと思う。」
「私はね、その考えを、改めさせたいわけ。」
「いやーむりだって、あの性格は60年くらいかけて作られてきたわけだしね。」
「むー、でもさーやっぱ変えたいってゆーか、戻したいってゆーか。」
「はははは。まあ、ほどほどにがんばりなよ。」

と手をひらひらさせて、階段の上から見送った。
いろいろたいへんだけどさ、がんばれよ。
+++(2011/12/1 当時のメモより転記)

2011年11月22日火曜日

入院日記9


朝4時。
今日退院の、おばあさまの誰か、もう待ちきれずに荷造りをはじめていらっしゃる。
これまでの事例では退院は午後だと思いますよ、待ちきれないのは分るけどちと早いのでは?(建前)ビニールのぐしゃぐしゃってゆー音がうるせーな(心の奥底の声)、などど声に出さない気持ちにも建前と本音があるよな、と一人納得する。
朝5時。おや、準備完了のようだな。

朝6時。起床。昨日から横向きに寝てもよくて、顔も正面までなら上げていい!!
朝日ってゆーのが見えた。ひさしぶりだよ朝日。窓に向かって顔を正面。外はこんな風景だったんだ、と初めての眺めを見る。

このころから、歩くときにふらつく。時に門を曲がるときに体が慣性力に負けてしまう感じ。
一日寝ている、移動も車椅子だから筋力もばっちり弱っている。


診察9日目:
A,B医師のひととおりの診察。
「どうですか?横向きは?」
「はい、世界が変わりますね。たぶん性格も変わりますよ。」
B医師、笑う。

+++
夕方、ヘルパーさんに洗髪してもらう。8日ぶりですかね。シャンプー泡立たなくてすんません。

+++(2011/12/1 当時のメモより転記)

2011年11月21日月曜日

入院日記8

月曜日。今日も元気で首肩が痛い。
日曜はひっそりしていた病院も今日は朝からいつものせわしさ。
看護師さんなどの働く人が増えているからでしょうか。

仕事の引継ぎをまるっとしないで入院してはや1週間、さすがにまずい。
会社と電話にて1対3の音声打ち合わせ。
頭を下げたまま電話なので、事前に打ち合わせ事項リストを作っておいた。
「この体勢を保って電話するのは20分が限度です。ちゃきちゃきやっちゃっていいですか?」

だらだらと仕事してたつもりでも、結構引き継ぎ項目多くて、あれ、自分、意外と仕事してたかも、と思う。

+++

診察8日目:
B医師午前中お休みで、A医師にてひととおり診察。
「B先生から横向きの許可でてますよ。今日の夜からね。」
「わーい。」


+++
夕方、学校の帰りに娘が見舞に来る。
「ほれ。適当に持ってきちゃった。」
と言ってビニール詰の着替えを持ってきた。
ごそごそととあさりつつ、
「ありがとう。でもね、Gさんの靴下はいらないから。返品。」

娘、お菓子をぼりぼり食って帰る。
 +++(2011/12/1 当時のメモより転記)

2011年11月20日日曜日

入院日記7

日曜日。
今日は発表会でコントラバス2台+ピアノでOblivionのはずだったんだけど、残念。
また来年リベンジか、違う楽譜を探すかしよう。

首、肩が痛いので昨日から湿布をもらって貼っている。
入院してずっとお通じが無いので、下剤をもらったが効果なし。お腹張ってて気持ち悪い。
昨日手術の同室のおばあさま達も今日は静かに寝ていらっしゃる。

日曜で一般診察はお休みだけど眼科のB医師は出勤してきていて術後の診察。
この病院の眼科はいつも混んでいる。朝から晩までひとりひとりの目を覗いて見て検査と判断。医者って重労働だなと改めて思います。(他の科は行ったことないけれど、診察室の廊下にまで人があふれている。)
今日は入院患者のみだから診察の待合室もひっそり。私の前の患者さんとのやり取りが聞こえてくる。
「△△さん、若いから直りも早いわね。退院ですが明日から仕事なんてまさかしないわよね。」
「あ、いや~自宅が仕事場なんで...。」 (そりゃたいへんだ。)
「あら(笑)、それはたいへんね。でも...(注意事項)。」

+++
診察7日目:
散瞳してひととおり診察。今日はB医師のみ。
「ガスも50%ってとこね。うーーん。」
「横向きですか??」 
うつぶせのあとは横向き寝で安静となり顔も正面までなら上げていいということを聞いていたのですかさず聞いてみる。
「うーん。あのね、○○さん(私)はね、一応手術は成功したけれど、ひどい剥離だったのよ。念のためあと一日か二日うつぶせしましょう。」
「 はい!」←出口が見えるとがんばれるものです。
それから、眼のことや手術について疑問に思っていたことなどを聞いてみる。
「いつもは患者さんで混んでいて日曜くらいしかゆっくりお話できないから、疑問に思ったことは何でも聞いて。」と言って私の質問に対し眼球モデルで説明いただく。

生まれてからずっと弱視だったけれど、今まであまりにも眼の仕組みについて無知だったと思う。これからはもう少し興味と注意を持ちたい。

+++
午後からGさんが見舞いに来る。
肩と首をずっとマッサージしてもらって、生き返る。

+++(2011/12/1 当時のメモより転記)

2011年11月19日土曜日

入院日記6

この頃になると一日中寝るのにも身体も飽きてきて、それよりも何よりも一日うつぶせ寝ではおでこと首と肩が痛い。 時々起きて座ってみたり、トイレに気分転換に歩いてみたり。
ラジオを聴くようになった。何局かFMをめぐってみてNHK FMへ。ある意味マニアックで面白い。洋楽、邦楽、クラッシック、ニュース。ザ・ピーナッツがアメリカのエド・サリバンショーで歌った「恋人よ我に帰れ」に聞きほれたり。イヤフォン一日つけてると耳痛いけど。

午後からGさんと娘が見舞いにきた。
私が起き上がるとすかさず
「頭下げな!」
「頭高い!」(←私、謝ってるヒトみたい)
「う、母さん、アタマの照り感がさー、ゴキブリみたい。」と娘。(し、しどい)
手術以降、お風呂はもちろん洗顔洗髪は禁止なのだ。(身体は毎日拭きます。)
さすがに照りってヘルメットみたいな髪になってる。

そんな会話をしていて、おや、いつの間に娘はベッドで横向きに寝転んで雑誌を読んでおる。または病院の夕食メニューを熟読して「おお、この豚肉のネギソースって美味しそう!!」などど言っておる。そんなくつろぎ感まるだしな格好...ここはうちのリビングですかねえ。
少し後、両親も見舞いに来る。これからみんなで夕食を食べに行くのだそうだ。楽しんできな!


Gさんからのお土産。
栗きんとんがめっちゃうま。










仲良くなったカンノさんが退院。カンノさんは私の母より少し若いくらいで、すてきな女性でした。
が、私はずっとうつぶせ、カンノさんは強度の近眼でお互いの顔を見ることの無いまま「お元気で~。」

+++

診察6日目:
A,B医師一通り診察。
「ガス、いい具合で残ってますね。60%くらいかな。剥離は....今のところ無いわねえ。もう少しうつぶせね。眼圧は正常です。」

+++(2011/12/1 当時のメモより転記)

2011年11月18日金曜日

入院日記5

食事の間、やはりずっと寝ている。
食べて寝てばかりで、運動しないのでずっと便秘だし太らないのか、
と思って体重計に乗ってみたら体重増えてません。いや減ってる?なぜ?

+++
昨日まで二人だった病室も、白内障で手術入院のおばあさま方で満室になる。
にぎやかで、なんだかツアーみたい(でも不安なのをしゃべって気を紛らわせている様子です。)

食事時「たまに入院もいいわね。」の声を聞きつつ、やはりじとーっとうつぶせな私。
もちろん食事も下を向いていただきます。
薬を飲むお水も、歯磨きの水もストローですする。

夜中、日中あれだけ寝ているためと肩と首の痛さのため夜中には何度も眼を覚ます。
うつぶせで寝ていると肩が痛くなるので、時々うずくまるような格好をして首を伸ばす(+うたた寝1時間くらい)...すると足がしびれてきて眼を覚ます...また身体を延ばしてうつぶせで寝る..また肩と首が痛くなってきて...の繰り返し。あ~トイレでもいくか。
おばあさま方の全音符的かつ断続的な重低音ないびきと歯軋りと寝言を掻き分けて、顔を下に下げてトイレに向かう。

+++
診察5日目:
必ずA医師とB医師二人に別々に見ていただきます。
散瞳して(上見て~右見て~下見て~左見て~まっすぐ見て~。眼圧測るわね。)×2。
「今のところ剥離はないようね。眼圧は正常になりました。はい引き続きうつ伏せね。」

+++(2011/11/30 当時のメモより転記)

2011年11月17日木曜日

入院日記4

同室の女性カンノさんと少しおしゃべりする。
カンノさんも網膜剥離で同じように大学病院からこの病院へ移動し、即手術だったそうだ。
話している最中、お互い顔を上げられない(笑)。
はたからみたら、すんごいヘンかも。

この頃から肩と首がとっても痛い。
ばりばりに張っている感じ。
座って頭を下に向けているより、うつ伏せで寝ているほうが楽チンなのでそうやっていると
やはりいつの間にか寝てしまう。
なぜこんなに眠れるのかっ。


うつぶせ寝用グッズ。
寝ているときはもちろん、座っている時も
この枕をおでこに当てて真ん中の穴に顔をうずめます。










4日目の診察:休診日。

+++(2011/11/30 当時のメモより転記)

2011年11月16日水曜日

入院日記3

Gさんは今日までお休みを取ってくれていたけど、明日から単身赴任先に戻る。
そのかわりに実家から両親が来た。皆で見舞いに来てもらった。

私はずっとうつ伏せなので、顔があまり見えないし話もしにくい。

なんだか母は涙ぐんでいた。私が眼に病気を持ったまま生んでしまい申し訳ないと、思っているのだ。
けれど0歳の赤ん坊の目に4度もメスを入れさせなければならなかった両親もつらかっただろうな、と思う。

+++
3日目午前の診察。A、B医師。
「手術、よかったわね。でもまだ良く分らないのよ。○○さんは剥離の状態がひどかったし水晶体が無いからガスが抜けやすいし、診察以外の間話しているときでもできるだけうつぶせでいたほうがいいわ。うつぶせね。たいへんだけれど。ん?眼圧高いわね~。眼圧下げるお薬出しておきましょう。」

眼圧を下げる目薬と飲み薬がプラスされ、目薬4種、飲み薬3種。
薬剤師さんから別途説明ありました。

3日目午後の診察。A医師。
「眼圧ちゃんと下がっているわね。K先生、念のために大目のガス入れてくださったみたいね。では引き続きうつぶせね。」


点滴と目薬の間、ずっと寝ていた。
何でこんなに眠れるんだろうねえってほど寝た。
点滴は本日(手術後2日目)で終了。

気がついたら、病室は2人。白内障の手術の方は入院が5日程度で短い。
+++(2011/11/30 当時のメモより転記)

2011年11月15日火曜日

入院日記2

手術日。手術は12:30の予定。

朝食後、飲食禁止。
10:00ころ 目薬(散瞳)。Gさんくる。
11:30ころ 体温、血圧測定、目薬(麻酔)。点滴開始。帽子をかぶる。
       トイレすませる。
手術室は器具使用の関係上、温度が低いとのことで病衣の下に着込む。あ、靴下が無い!
12:00ころ 手術室移動。

手術室に入る、眼がねかけてないから良く見えないけれど、穴倉の中に横穴が4つくらい開いてるような...。赤っぽい照明の部屋に移動し、別の椅子に乗り換える。バッハのG線上のアリアが流れている。
次にとなりの部屋に移動し、待つ。看護師さんと少しおしゃべりをする。血圧下げる薬(安定剤とのこと)を注射(これ、痛い。)。現在手術中で私はその次の次だそうだ。(流れ作業のようだ)

K教授が来て「麻酔をします。」いきなり眼の下にぐぐっと針を打つ。球後注射。 眼の下をぐりぐりっと押し込まれる感じでその瞬間息できません。しばらく後、看護師さんが「指を眼で追ってください。」と言う。指を眼で追っているが、右目は動いていないようで「麻酔はちゃんと効いていますよ。」
手術室の前で待つ。寒くないようにひざ掛けをたくさんかけてもらう。靴下無いので足まわり念入りに。

しばらく待って手術台へGo。こちらはノリのよいロック調の曲。歌詞のない音楽のみ。名前を聞かれ、どちらの眼の手術ですか?と言う問いに答えてから、顔の前に右目に穴が開いた青い布がかけられる。

右目の視力はあまりないけれども眼に器具が入れられる感覚は分る。視力のいい人は器具を動かしている様子が見えるのだそうだ。はじめちくちくしたけれど痛さは感じない。何かを剥ぎ取り吸い取る感覚、レーザー治療の音を聞く。執刀医の器具の動かし方に迷いの無いことも分る。当たり前のように治る、という気持ちになっていた。

局所麻酔なので、会話も聞こえるし話もできます。
K先生「この白内障の手術はどこで?」
私「○○大学病院です。」
K先生「うーん、このやり方、ありえねーな。」(←イヤミな感じではない。)
私「43年前ですから!」

ガス注入の段になって
K先生「おい、ちゃんと言ったとおりガスつくったか?」(濃度とかのことらしい。)
助手「はい。」
K先生「誰が作ったんだ?」
助手「ヤマザキ(仮名)です。」
K先生「ヤマザキ?大丈夫かおい。」
助手「大丈夫です、ちゃんと連絡もらったとおりに昨日二人で作りました。ガスやさんきて。」
(布の下ではどきどきです。が、不思議に器具を動かすリズムのよい速度から手術が問題なく進んでいることがわかる。鼻の上の布上に手や器具が乗っていて口で息をしていた。)

「痛いですか?」
「痛くありません。」

ガス注入のメモリを読む声を聞いた後、縫合。

「はい、終わりです。」の声とともに、車椅子に移動。
「下向いてください。ここからうつぶせ姿勢です。」と言われ下を向く。

手術室から出るときに「手術は成功です」と言われた。
「手術時間は何分ですか?」と聞いたら「36分です。」とのこと。
(たぶんとても短い。ネット上の手術記録を読んでいると、硝子体手術は3年前で2時間くらい、最近でも1~2時間くらいの手術時間らしい(調べた範囲)。K教授は、右手左手足を使って器具操作するのだそうだ。)

14:00ころ 手術室でる。

ベッドでうつぶせ安静1時間。Gさんはベッドのとなりにずっといた。

+++
網膜剥離では手術と同じくらいうつぶせ姿勢の維持が重要。
この、うつぶせ姿勢で約1週間苦しむことになる。

+++
病室は6人部屋で、私よりずっと高齢のおばあさまたちが5人。4人が白内障、1人が網膜剥離。
大部屋だけれど皆さん昼間もカーテンを閉めて横になっていらっしゃる。
私もこの日はひたすら寝た。(Gさんには「寝てるだけだからさ、また明日~」)

+++(2011/11/30 当時のメモより転記)

2011年11月14日月曜日

入院日記1

■■■
11月15日に右目の網膜剥離にて硝子体手術を受けました。
私の場合は、右目は先天性白内障にて弱視であったため、自覚があったにもかかわらず散瞳困難で眼底検査での初期発見が難しく剥離が進んだようです。裂孔3箇所、第3、第4象限の黄斑を含む剥離、網膜どうしの癒着有り。硝子体手術にて復位。(手術内容に興味のある方は、ぐぐっていただければと思います。)
自分のためにさかのぼって経緯を記録しておこうと思います。(後でいろいろ便利なので)


ことの始まり。
・健康診断の結果眼底に出血有り、との結果で最寄の眼科へ行く。→眼底検査の結果、異常なし。
・今年(2011年)の9月13日、左目の見え方が変(ゆがんでいるような)感じがして同じ眼科へ。
→眼底検査の結果異常なし。「飛蚊症ですかね」、と言われる。

この間、暗がりで左目の隅が光って見えたりする。しかし、かかりつけ眼科の検査では異常無しだったので、神経系の医者へ行こうかと考えつつ日々をすごす。
10月の終わりから11月のはじめにかけて、右目の上のほうが光る水滴様のものが見え出す。右は弱視でもあり、はっきりと見えないのでこっちの目も飛蚊症かと思って数日過ごす。水滴様のきらきらした部分が日数がたつにつれ広がってきて、歩きずらいし違和感もあり。
(仕事では仕事量と出張多く、医者になかなかいけない。)

・11月8,9日あたりから違和感とともに頭痛もあるため「これはぜったい変」と感じ、出張先での会議が終わったのち、これからすぐ戻れば眼科に間にあうという時間に新幹線に乗り以前と同じ眼科へ。これでなんとも無ければ神経系の医者を紹介してもらおうと思った。それが11月11日金曜日。

眼底検査の後。
「以前と状況が変わっています。網膜剥離です。随分剥離が進んでいます。すぐ大学病院へ行くべきですが今日はもう受付時間終了ですので月曜朝いちに行ってください。紹介状を書きます。すぐ手術したほうがいいと思います。ああ、でも教授はお忙しいからいないかも...。2,3週間の入院になると思います。ただ、○○さん(←私)の場合、かなり剥離が進んでいますし白内障の手術もしていて、この病気の性質上、右目は光も見えなくなるかもしれません。」

といって眼底写真を見せられた。写真はピントは合っていなかったが半分くらい白濁していた。その部分が剥離しているという。
(注:調べてみると、現在、通常の網膜剥離での復位率(手術成功率)は90%なので、失明の可能性は私の場合に高い、ということだと思う。)

私、呆然。
「でも9月に変だって言って、診てもらってますよね。その時には分らなかったんですか?」
「状況が変わってます。」
医師からの説明はそれ以上無く、かなりにショックのまま、とりあえず会社戻り、11月14日に大きな病院へ行きそのまま休むかもしれないことを伝える。上司はとても心配してくれた。

私の右目は先天性白内障で弱視だったため、小さい頃からどちらかが見えなくなることに対して恐怖があって定期健診も年に1、2回受けてきてたのに...、と、かなり肩を落としました。
土、日は入院の準備もしつつどんよりとしてすごす。
「ああ、右目見えなくなったらいやだなあ、そしたら仕事続けられないかもなあ、気持ち的に。」

+++(2011/11/28記)


・11月14日
受付時間の10分前到着を目指し紹介された大学病院へ。Gさんも会社休んでついてきてくれた。受付開始の8:45より前に受付開始されている模様...。紹介状を渡してカルテ作成を待つ。
9:05 受付より名前を呼ばれ、カルテを持って眼科の待合室へ。
9:40 窓口から名前を呼ばれ、診察室内の待合室へ。視力測定、眼底検査。
若い女性の初心担当の眼科医に「網膜剥離です。」と言われる。(←はい、知ってます、と思った。)

「午後から、(紹介状に名前のある)教授の診察があるので、今後のスケジュールなどお話したいのですが、昼食をとっていただいて、13:00にもう一度来ていただいて窓口で名前をいっていただけますか?」
「やはり手術ですか?」
「そうなると思います。」
気になっていたことを聞いた。
「9月に右目に異常を感じて眼科にかかっているのですが、その時には異常なしといわれました。それは、発見が難しかったのですか?それとも前に診てもらった医師の・・・」(スキルや経験の問題ですか?(A)と聞きたくてもごもご。私はこれ以降診ていただいた先生に同じ質問を繰り返す。)
「以前手術したあとがあり、眼底が非常に見難く、初期での発見が難しいと思います。もしくはまだ剥離が始まっていなかったのかもしれません。」


13:00  K教授による再診。
「網膜剥離です。(←もう3回目の診断...) すぐ手術したほうが良いでしょう。そこで相談ですが、今ここの病院の設備の空きを待っていたら来週半ばになってしまいますので、今日明日にでも手術できる別の病院を探してみますので、あと1時間待っていただけますか?他の病院の設備を借りて私が執刀します。」

分りました、といって1時間待つ。
大学の工学部の先生(特に機械系)は何人も知っているけれど、どの先生もほのぼのした雰囲気を持っていた。が、このK教授はまるで違う。キレる感じ。語尾が断定系ではっきりしている。

1時間後。
「病院が見つかりました。今からすぐに、ここのO総合病院へ行ってください。手術は明日です。」

急展開に頭がついていっていないけれど、同じ質問(A)を 繰り返した。

「先天性の白内障から網膜剥離になるケースはとても多いです。そして散瞳しにくいし眼底が見えにくい。初期で発見するのはよほどの精密な検査をしないと困難でしょう。たしかに、○○さん(私)の手術は難しい手術になるでしょう。でも、(私が執刀すれば)治ります。視力も元に戻ることを目指します。再剥離する場合はほとんどが1ヶ月以内です。きちんと直せば再剥離は手術前よりしにくくなると思います。」とのお答え。

(私が執刀すれば)の部分は先生は言わなかったけれど、私もGさんもそのセリフを先生の表情から聞きとっている。なんだか大丈夫、治るような気がしてきた。医者の先生のこういう言葉は患者をとても心強くする。...しかし。治ります、の根拠が何なのか、とても興味がわく。

「仕事があって、引継ぎしたいのですがする時間ありますか?」
「(苦笑)ありません。」


15:30
Gさんは着替えを取りにいったん自宅へ戻る。
私は紹介されたO総合病院へタクシーで移動。受付はすっとばして眼科にていそいで手術用の検査を行う。
(後でわかったのだが、このO総合病院では大学病院からの医師が目の手術を担当し、術後をO総合病院で診るという連携をとっているようだ。私のような患者がたくさん入院していた。)

合間をみて会社へ電話し状況を連絡する。

視力検査、眼底検査、血液検査、尿検査、胸部レントゲンなど。ここでも右目の眼底写真がなかなか撮影できない。硝子体部が白濁していて眼底まで光が届かないのでピントが合わないらしい。

A医師
「網膜剥離ですね。右目全体が剥離した網膜で白濁しています。もしかして全部剥離しているかもしれません。網膜どうしの癒着もはじまっているようで...これは難しいかも。視野に異常があったあたりから剥離が始まっていたとすると、うーんもう2週間以上か..。何日も剥離したままだと網膜に栄養が行かなくなって死んでしまうんです。復位できないかもしれないし、くっつけてもまた剥離する可能性があります。手術時間もどれくらいかかるか分らないですね。」

B医師
「んー、よく見えない。確かにこの状態での剥離の発見は難しかったと思います。私も分らなかったかも。最後にもう一回だけ写真にトライさせてもらえますか?」

B医師は眼底の写真を何枚もとり、モニターで確認。
「あ、これ撮れてる。あら、ここに神経が見えますね。ここ、まだちゃんと血液が通ってそう。もしかしたら、まだ大丈夫かもしれないわ。」さらに続けて、
「K先生は数多くの手術経験がありいわば天才的な手術をなさいますから、失敗なんていうのはないんです。硝子体手術で1時間以上かかった手術に立ち会ったことはありません。が、網膜自体がだめになっていたら、見えなくなる可能性があります。」

+++
私がここで非常に興味を持ったのは、対象は私の右目で5人の医師の診断名はひとつなのに、その状況把握の仕方と治る・直らないの判断がばらばらだったということだ。測定機器の性能、機器を操作する使うスキル、これまでの眼科医の診察経験(分析力)と手術スキルによってばらつくのだと思う。
はじめのかかりつけ医は、いつもすいていてゆっくり見てもらえた。けれど患者(診察数)が少ないし結膜炎や目付近の打撲などの患者が念のため見てもらう等が多い(推定)。それに眼底検査の撮影画を見ての判断では眼底にピントが合っていなくてもそれ以上踏み込まないし、手術についての知識も少なそうであった(説明の少なさから。)
一方、O病院のB医師は、検査機器を操作し納得いくまで撮影していた。現状を正確に判断しようという意思が感じ取れた。説明のしかたも的確かつ説明の言葉がとても多かった。こちらからの質問に対して言葉を濁さない。
K教授は、おそらくもっとひどい状態の手術の成功経験があるのだと思う。こんど聞いてみたい。

かかりつけ医をどこにするかというのは難しい。O総合病院は重篤患者も多く込み合っているし大学病院は紹介状必須だし。中途半端に大きな病院であまり上手ではない医師に手術されるのもなあ。それでも初めのかかりつけ医で、K教授を紹介いただいたことはラッキーだったと思う。

+++
17:00ごろ Gさん、O総合病院に到着。二人で明日の手術の説明を受ける。


(手術説明書の一部)
麻酔は球後注射。下眼瞼から。
右目の白目の部分4箇所から手術器具を差し込む。
硝子体を切除し取り去る。
網膜の破れた部分をレーザーにてつなぎ合わせる。
硝子体があった部分にガスを注入し復位させる。
(このためうつぶせ状態になりガスの圧力で 網膜を眼底に押し付ける。ガスってどんなガス?と思い聞いてみたらSF6だそうな。へー。)

他にもいろいろ説明があり、質問もした。





「球後注射って痛いですか?全身麻酔じゃないんですねえ。」
「小さい子供以外は局部麻酔です。大丈夫ですよ、高齢の方でもがんばっていらっしゃいます。
ああ、でも社会経験の浅い20代前半の子は意外とダメねえ。」

+++
「右目、失明したらやだなあ。(あたりまえだけど)」
「治るよ。だってあのブラックジャックみたいな教授が治りますっていってたやん。」
Gさんと、この会話を何回か繰り返す。


18:00過ぎ  入院手続きをして病院の夕食。
娘も来て、病院の食事をつまんで食べて「ふーん、なるほど。」ここでも彼女はマイペース。
(でもそれなりに心配していたらしい。)

いきなり入院、そして明日は手術かよ、の怒涛の一日が過ぎ、何人かのおばあさまたちと同室の部屋で消灯。眠れなかったらと心配だったので睡眠剤をもらう。


+++(2011/11/29当日のメモから転記)

2011年11月13日日曜日

またもや一回休み

しばらくブログはお休みです。長くて一ヶ月くらい。

体調不良のため入院となります(予定)。
正確な診断はこれからなので、詳細が分って落ち着いたらまたレポートしようと思います。
命にかかわることではないのですが、完全に元の生活ができるかは微妙でしょうか。

+++
やっとお金を下ろしました。
出張先だったので、地方銀行しか見当たらず手数料105円です。
だからたくさん目におろして、損(?)を薄めました。

あの日からのマンガ

”しりあがり寿”の名前を知ったのは、何年か前の美術展「日本×画展」で、墨絵インスタレーションを見たとき。本当は松井冬子の絵が見たくて出かけたのだけど、しりあがり寿の展示室に入ったとたん、なんだかわけの分らないどデカさに顔がほころんだ。


その、しりあがり寿が「『たとえ間違えているとしても、今、描こう』と思いました」としながらも、あの震災の日から書いたマンガを出した。amazonで注文しても一時期入荷待ちだった。
何かを伝えなくては、という思いがマンガからひしひしと伝わってくる。


あの日からのマンガ

2011年11月10日木曜日

朝も夜も

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朝、CMを見ていて、
「ああ~、この俳優さんなんかトシとっちゃったなあ。この前までもっとぱりっとかっこよかったのに!」
「この人誰?なんてゆー人?」
「あ...。名前思い出せない。誰だっけ?この俳優のお父さんの名前は思い出せるのに。」
「トシとったのはどっちでしょうねえ。ふっふっふ。」

むー。

+++
夜、出張から娘(習い事帰り)と待ち合わせて家に帰ったら、9時ですがな。
二人ともお腹すいててめっちゃ機嫌悪い。

「今日の夜ごはん何?」
「あんたさ、朝にさ、今日の夜はレタスだけでいいって言ったじゃん。」
「言ったよ!でも言った事忘れてたんだよ。で、今日のごはん何かなと思って。」
「朝レタスだけでいいって言ったから何も買ってこなかったよ。
作るといらないって言われるし買ってくるといらないって言われるし。あんたお腹すいてるでしょ。機嫌悪いなあ。」
「そうだよ。お腹すいてるんだよ。お腹すくと機嫌悪いの! 林檎あったよね。煮てくれる?」
「え。面倒だなあ。」
「だってレタス切ってくれるんでしょ。」
「ああ、レタスって切るのか。ちぎってもいい?」
「いいけどさ...。林檎も切って煮てくれてもいいよね、母親なんだから。」

確かに寒いひもじいがくると、次は、もうあかんってなりますね。心が寒寒です。

家帰っておなかが満たされると(←林檎も煮たし朝のおかずの残りもあった!!)
空気の温度がかわりますね。

2011年11月9日水曜日

お金の形態が変わる日ってくるのか

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お財布に300円しかない。ATMでおろさなくては、という日が3日続いている。

いつも行くスーパー2店のカード、カードから入金するSuica、の3枚でほぼ事足りるから
現金無くても済んじゃうんだよな~。
困るのは、急に食べたくなるパン屋さん、ケーキ屋さん、くらいか。
いっそ現金無いほうが無駄遣いしなくて済むのかも。

2011年11月8日火曜日

おちょぼ口

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健康診断の朝。
この、顔に塗るファンデーションとか目に入れてるコンタクトって何グラムなんだろう、と考えてしまう。
不毛な朝。相変わらず、おばかなわたくし。
そんな微小誤差とは関係なく、着実に、ホップステップジャンプな勢いで増えてます、体重。
でもまだGさんの体重を超えてない(推定)から、今年はセーフ。

+++
「釣りして~。」とずっと言っていた娘であるが(釣りは娘の小趣味)、先日願い叶って釣りに行った。
父親にねだったらしい。「そりゃ私(娘)が行こうって言ったらぜったい行くってゆうんだよ。」
甘えどころを知ってうまく使えるってのは、人生を上手に泳いでいける技能でもあるから、よいと思うがね。
(↓wikipediaから)

釣り。狙いはカワハギなのだそうだ。
カワハギの口は笑っちゃうほどおちょぼなので、そのあたりを感じ取るのが難しいんだそうだ。

身もうまいがキモはめっちゃうまい。(以前娘が釣って持ち帰ったカワハギをさばいて食べた。お吸い物はキモだけでいけます)
しかしスーパーの魚コーナーで見ても笑える、このおちょぼ口。


父親のうちで、さばいておなかいっぱい食べてきたらしく、朝早くて疲れたわ眠いわで、家に帰ってきた時には、見るからに機嫌悪かった。(まるで、疲れている時の自分を見てるよう。)

でも考えてみたらアレですね。娘には、私たち家族の他にかわいがってくれる父親とじーじばーばが3組あって、それぞれからいろんな影響を受けているし多くのことを教えていただいている。これってある意味ものすごくお得な状態なのではないか。もちろん、じーじばーばたちのフトコロの深さに感謝しつつも、でも娘の素直さがあってこそ、大人たちにかわいがられているのかもしれないなあ、とも思う。(←めっさ親ばか)

...思いつつも、「ちょっとー、数学やんなさいよっ。」と夜更けに叫ぶ母。

2011年11月7日月曜日

あの季節です。

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私が最も軽かったのは20代前半。
そこから、30代で3kg、40台で3kg増え、気が付いたら7kg増えてた。
足し算が合わないのは、切捨てしたやつらが無視できない値になってたという...。
いやこんなところで告白してどうーするんだってことなんですけどね、もうすぐ健康診断なんですね。
体重計乗るときには、決して変わらないのにおなか引っ込めて乗ってしまう、あのイベントです。

もともとの健康診断日には出張があったため日にちを移動してもらったら、
ずずんと1週間以上早まってしまいました。
着実に体重落としていこうと予定していたんですけど、間に合いませんなー。
(1週間で何が出来るんだ、ということはさておき。)


「ボクより体重重くなったらこの家でていってもらう。」って、Gさんが。
「出て行かれてみろ、困るのはどっちだ!」って開き直ってみたり。

2011年11月6日日曜日

祭りの後

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一日まったり。
飲んだ日の次の朝は味噌汁がうまい。

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夕方5時、NHKBSで「イタリア ブランド・パワー」という番組(再放送)をやっていた。
ジノリとベネトン、15分ずつ。..見ちゃった。面白かった。

ジノリは一時そのブランド力にあぐらをかいて拡大路線をとっていたが、現在では工場を一箇所(セスト・フィオレンティーノ)に集約して自分達の遺伝子に沿った製品を見つめなおし作り出している。
コモディティ化と利益はつながらない。アイデンティティと信念、よい製品を...という立ち位置に長期利益(というか生き残ってゆく道)はあるのかもしれない。

ベネトンは、創業地であるトレヴィーゾにずっと本社を置いている。そこに「FABRICA」という、25歳以下の若いクリエーターが一年契約で自由に作品作りに没頭できる研究施設がある。(衣食住の保障付) よい作品はベネトンの広告に採用される場合もあるし「ここはパラダイス」だ、一人の若者が語っていた。

イタリアは経済的には破綻しているということだが、伝統と新しい試みも、やはりばらばらに存在しているイメージがあって、そのばらばらさ加減が外から見るととても魅力的なのだ。

2011年11月5日土曜日

だんだんと

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「知ってますか?最近またバター売ってないんですよ!昨日かみさんに頼まれて昨日探し回りましたよ。
そしたらさすがですね、成○石井にありました。お一人様一点でしたけど。」

と、職場の男性から情報仕入れたのが11月4日。
えぇ~!?今日ケーキ作るのに...。
(でもうちには、バター3/4くらいは残っていたはずだし、まあ間にあうか)
帰りに娘と待ち合わせてスーパーのぞいたら、確かに。
激高バターは売ってましたけどお手ごろ価格のはありませんでした。
バックアップに成○石井で切れてるバター(お一人様一点かぎり)を手に取りました。

「でもこれじゃあ2台つくれないよ。」
「まあひとつにしときなよ。」

ってことで作ったのは林檎のタルト。(写真撮る前に食べてしまいました。)
次の朝「うーでもやっぱロールケーキも作る!」と学校行く前に焼いてました。
学校遅れるって!

+++
今日はアンダンテさんとスケルツォさんがいらっしゃいました。
目的は..あれなんでしたっけ?
あ、ケーキを食べにですね、それから漫画本の返却とピアノ。
お、うちのピアノ、音出るじゃん、とGさんと言いながらお二人のピアノを聞いたり、
ちょぴっと連弾に混ぜてもらったり。
食卓には4人(あとから娘も加わって5人)、ワインは2.5本/3人でいい気分でおしゃべりしました。


QuotaMAZERも前に飲んでた。
MAZERはアンダンテさんと前にも飲んでた!










私も(弾丸トークまではいかないですが)だんだんとなじんできましたよね。

ってなわけで、一眠りして今起きたとこです。
またいらしてください!

2011年11月3日木曜日

地元の作り方

休日。
少し掃除をして、近所のイタリア食材やさんに出かけた。
このお店のメインはネット販売で、出店は月に数日なのでなかなかいけないのだ。
お昼すこし過ぎにお店をのぞいたら、二人で(ご夫婦)食材の入っていた木箱の影で
地べたに座ってサラミとバゲットをもぐもぐとかじっていた。
その姿、あまりに怪しい...。
お互い「えへへへ。」と挨拶する。
サラミとアンチョビとブラッドオレンジマーマレードを買う。
「イイダさんのお店に行こうと思ったら満席で...2時くらいにははけるかもしれないから
再トラしてみようと思って!だから買ったもの預かっていてください。」
「いいですよ。へー満席か。さすがだな。」とお店のご主人。

けれども再トライの結果は×。やっぱり休日だからなあ。
で、オープンしたばかりの(すこし知り合いの)イタリアンに。
結局のんびりとチーズまで食べてしまった。
デザートは娘へのお土産用にテイクアウトにしてもらう。
またさっきの食材やさんに戻って
「優しい味でしたよ。」と今行ったお店のお皿の感想を言ったりして。

このあたりのイタリア系食べ物やさんは知り合いでつながっているのだ。せまい街だし。
私もここに住んでもう20年くらいだから、なじみの食べ物やさんが増えていく。
人ともつながっていく。
こうやって”地元”っていう感覚ができてていくんだなあ、と、急にしみじみした。

もう私にとっての地元って、もう生まれた土地じゃなくて今住んでいるところなのだ。

2011年11月2日水曜日

発表会レッスンメモ3

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オブリビオンのみ一時間。
今日はコントラバス2台での練習だったので、もう練習だけでもいいわー充分ってな気持ち。
弦どおしであわせると倍音が部屋中に充満するので、それに満たされる幸せ感があります。
特に重音の間に音をはさむ時とか。
大きなところ(特に音程)から細かなところ(さらに音程とか)まで指摘いただきつつ、
まずはそこ(やっぱ音程)を抑えないとね、と、3歩歩いて2歩下がる。
タンゴ的なニュアンスの弾き方を指導いただき合わせてみるのが楽しい1時間でした。

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今日は休みを取って、娘の学校の文化祭へママ友と。
平日だったので人が少なくて、何個かにしぼった展示を流さず見たらば、あ、なんか楽しい。
ハンドベル体験で3人で「きらきら星」をどきどき演奏。おもしろーい。
管弦楽を着たら私も中高生に戻りたくなりました。あの中に入って練習したい...。
なんか青くて痛くて、でもきらきらしてていいねえ、きみたち。

2011年11月1日火曜日

紅玉がすき

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ハッとしてドンッ。
ドンよりハッの方が早かったのに、傾く頭を止められなかったのが悔しい。
そして壁と頭の接触。
風呂場で寝るのは、気を失うのに近いのだとか。

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週末の来客用のケーキはフルーツのがいいよね。やっぱ紅玉か。
杏も美味しいけど生のはもう季節じゃないよね...
アーモンドプードル使うお菓子は美味しいのよね、でもカロリー考えると怖いわー
ラタトゥイユ便利なんだけど、あれって夏のものなのか...
とか言いつつ、「フランス菓子基本の基本―ル・コルドン・ブルーに学ぶ」と「わ、かんたん。」「あ、おいしい。」の本を見る。娘と二人。
「このお菓子の本に載ってるのって難しいんだよ、材料も手に入りにくいし。あのね、タルト本が欲しいんです。欲しいんです、欲しいんですよかーさん。」
「いや、それは次回ね。」

さらっと流したが。あのさ。
お菓子の本を買うとね、材料と道具も欲しくなるでしょう、
ミシンを買うとね、生地も道具も欲しくなるでしょう、
語学を習い始めるとね現地行きたくなるよね...
絵を描き始めるとね......。

でも どれかひとつ本気で取り組む姿はなかなか見られんですな。
やりたいやりたいって言っても、ただ言うだけで漫然と過ごしてたら時間はこぼれていってしまう。


この娘と15年一緒に暮らしてきて思うのだが(急に思ったのには訳があるのだがそれは置いとく)、
どうもキミは注意力散漫、な気がする。(あっちもこっちも気になっちゃうとかね。)
物事の骨組みをつかんで効率よく対応するのがヘタかも。(効率よくテストの点がとれないとかね。)
空気読みがち。(外面がいい。自分に集中が出来にくい。)

まあでも、あんたは私が中学の頃より、ずいぶんと素直で優しくてオモロイけどね。