2011年12月6日火曜日

言葉について

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せっかくだから怠惰の空気にひたろうかとチェット・ベイカーを空気中に放ってみたものの、残念ながらその中でぬくぬくとぬくまるほど経験値が高くないことが分った。逆に端っこから焦燥感がじりじり。
まだまだだな、自分。

伊藤 計劃の虐殺器官を読み始めた。(伊藤 計劃は、武蔵美の映像科卒、2007年デビューしてからわずか2年、2009年でがんで亡くなっている。)言葉の構造と、そしてそれを支えるリテラシーみたいなものに引き込まれる。だめだ、読むのがもったいないから中断。

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言葉と言えば、昨日、話をした美術教室の先生の話を思い出した。
”私は、たとえば大学は、ひとつの通過点にすぎないと考えているんですよ。大事なことは、自分を表現し、まわりを巻き込んでいく力だと思います。そういう力のある人たちが自分のやりたいことを達成しています。(近年のアート系の人を例に、いかに彼らが成功を手に入れたかの事例を話してくださる。)そのためには、美術でいうとデッサンのスキルも大事だけれど同じくらいに言葉を操る力がとても大事。国語、外国語、言葉で自分を表現することをいかに身につけていくか、だと思います。”
この部分は印象的であった。
ただ、この後の”だから”数学は点数取れなくてもいいんじゃないですか、僕もぜんぜんできなかったし、今となってはまったく役に立たないし。”と続いた時には、ちょっとそれは違うんちゃう?と思って「それでも、微積分は分ったほうが世の中生きてく時にはより面白いですよ。」。
(もちろん美術系の教室だし、それに携わっている人のごく普通の考え方だと思うけど。でも何も無いところにあるものを作り上げようとする人だったら、もう少し面白い考え方をしても良いのでは?と、分野が違う人と話す時にはもしかしたら面白い価値観と出会えるんじゃないかと期待しちゃうんですよね。)
”だから”というのはないでしょう。 数字だって文字だって、言葉だってベクトルだって世界と自分との関係性を表現する、世界を自分に引き寄せる道具には変わりあるまい。

ついでにもう一個、面白い雑談があった。
ピアノやヴァイオリンなどを(将来の職業として)弾くためには反射としての運動性を必要とするため、小さい頃から訓練する必要はあるが、絵を描くということおいては必ずしも早くはじめればよいというわけではない、らしい。それは絵を描くためには正確なデッサン力がベースとして必要であり、観察する際の、相当な集中力持続は小さな子供にとって難しいのだそうだ。(ピカソはそれができたそうです、それが才能だったんですね、とのこと)。だから子供の書く絵と大人の書く絵はまるで違って、この集中力が出来上がってくれば絵も変わってくる、のだそうだ。(娘はまだ子供の絵で、集中力がついてきた絵は変わりますから、とのこと。)
へー。

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そういえば先日、NHKコロンビア白熱教室「あなたの人生を決めるのは偶然?選択?」を見た。一見自分自身で選択したと思っていても、様々な価値観により自分達の選択は左右されているというテーマはとても興味深かった。そして、価値観は言語系と関連が深いので多くの言語を学ぶことは、自分をさまざまな価値観に置く意味でも重要、みたいなことを言っていた。HSBC銀行の事例が挙げられていた。語学系の苦手な私は、夜ごはんの食卓で箸を持ちながら「げー、結局そこかよ」とつぶやいちゃったんですけどね。

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学校の勉強も部活も習い事も友達も家族も愚痴も、娘にとって無意味なものは何もないと思うけど、その中で圧倒的にやりたいことはこれ、っていう姿勢はいつ見えるんだろうかねえ。わくわく。

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