2011年10月31日月曜日

遺体

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石井光太の本は何冊か読んでいる。ともすると野次馬的な題材を扱ったルポなのに、筆者の立ち位置がとても人間くさくて温かい。どの本を読んでも筆者の匂いがする。

石井さんは、震災が起きてすぐ3月14日から東北へ入り、5月の連休まで2ヵ月半を現地で過ごしたそうだ。私は筆者のブログもツイッターも読んでいて、子供が亡く なったことが受け入れられずに体液が流れ出てもずっと抱きしめている親のことが書いてあったりしたので、この本も人の内側に踏みこんだ内容になるのではと、読むのが怖かった。
タイトルが『遺体』になります、とブログで告知があって、なんだかそのままだなあと思ったのだが、読んでみたら、納得した。”一瞬のうちに約三万人という未曾有の遺体が出た時、人間はどうその現実と対峙していくのか。それが本書のテーマだ。”と石井光太は書いている。


さっきまで生きていた大切な人に表情がなくなるということ。目の前にある親しい人の遺体は、ぜったいにモノではない。けれどもう笑いかけない。その不連続感に対峙できない。多くの人が命を落としたあの震災で、人と遺体のかかわり方はどうなのか。それらが丁寧に追ってある。

私も以前、伯母が亡くなったとき、その遺体が目の前にあることにどう気持ちを切り替えていいのか分らなかった。この目の前になるのはいったい何なのか。何だったのか、今でも分らない。伯母はどこに行ってしまったのか。生命の生きている状態と死を明確に別けることは難しいという。生命システムが自立して動かなくなるという物理的な面からも人と人との関係性の面からも、生きているということとはどういうことなのか。
伯母の場合はがんだったし、数ヶ月前から覚悟はしていたが、それがいきなりであればそしてそれが大切な人であったならば。...きりきりと痛い。(被災はとても個人的な体験であり、分かち合うことは出来ないと、ある被災された方が書いていた。私も決して被災された人の心の痛みを分ることはできないし、だからこういうことを書くのは本当はいやなのだが言葉が思いつかないのだ。)

忘れないことだと思う。ひとりひとり、個人を伝えることはできないけれど、大きな震災があったということを伝え、そこに生きていた人がいたということを伝え、そこに悲しみがあったことを伝え、笑ったり泣いたりむっとしたりしながら、私が生きていくこと、生きていくことをつなげていくことをきちんとやっていこうと思う。生きていくことを投げ出さない。




遺体―震災、津波の果てに

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