2011年7月11日月曜日

知性と野性の構造

昨日の夜作ったカレー。
今朝も食べました。
出掛けにまだ温かいカレーを冷蔵庫に入れられなくて大丈夫だろ、と思って鍋に放置したカレー。
半日で黴が生えました。orz。

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昨日の夜、内田 樹の研究室の「2011.07.05暴言と知性について」をふんふんと読んでいて途中で吹いてしまった。ああなるほど、もやもやをきっちり言ってくれた気分。


松本復興相が知事たちに対する「暴言」で、就任後わずかで大臣を辞任することになった。
ことについて思うところを書いた記事だ。
興味のある方はぜひ全文をお読みください。


(前略)
怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない。
だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを向上させることを願っていない。
彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。
どうして、「そんなこと」をするのか。
被災地における復興対策を支援するというのが、復興大臣の急務であるとき、被災地の首長の社会的能力を低下させることによって、彼はいったい何を得ようとしたのであろうか。

人間が目の前の相手の社会的能力を低下させることによって獲得できるものは一つしかない。
それは「相対的な優位」である。
松本復興相がこの会見のときに、最優先的に行ったのは、「大臣と知事のどちらがボスか」ということを思い知らせることであった。
動物の世界における「マウンティング」である。


(中略)
論争的場面において、人々は詭弁を弄し、論点をすり替え、相手の思考を遮り、相手が「むずかしいことも理解できるように知性が好調になること」を全力で妨害している。
それは論争の目的が、相手の知性を不調にさせて、ふつうなら理解できることも理解できなくなるように仕向けることだからである。
論争相手を知的に使い物にならなくすることによって「どちらがボスか」という相対的な優劣関係は確定する。
この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである。

(後略)

マウンティング..。言いえて妙。
あんまりにも納得したので、わははと笑って、Gさんにこの部分を読み聞かせてしまった。
相手に自分の優位さを見せつけ思考停止にし考えさせなくすることで自分の主張を通す、こういう手法にはわりとよく遭遇する。(会議の席上でも、よく見かけるし、それを思い出したから吹いたのだ。)

そして、明快なロジックとデータ(事例)、分りやすい落ち着いた口調で説明することで相手の思考や理解のパフォーマンスを上げていくという知性に対して、だんだんと自分をかえりみてしまい、結局はうなだれ反省へ。


でもまあ。分ったところで、もしロジックとデータの準備が不十分であれば、その途端、相手の知的パフォーマンスを上げるという手法では目的達成まで行き着かない状況となるだろう。知性を武器にする手法から、優劣関係でもって相手をねじふせる戦法にアタマの回路が切り替わることだってあるだろうなあ。

そして、さらにさらに、仕事に場面を移して想像(妄想)は進む。
もし、みながみな相手の知的パフォーマンスを向上させるような、理論構築と語り口で打ち合わせしはじめたとしたらどうなんだろう....うう、正直なんかキモチワルイ。
理論的に矛盾が無く、少しでも良い解を探索しようとしはじめたら、...多分、物事、なかなか決まらないだろうなあ。声の大きい人、立場を利用してゴリ押しする人、高慢な物言い、理論で押し通す人、そういう人たちへの不満をためる人(あとでぶつぶつと不満を吐き出す。ああ、それは私か?)、場をまとめようとする人、そんな力学でつりあって、なんとかひとつの解で折り合いついて決まっていくような気もするのだ。



もちろん、政治のレベルでは、ぜひとも有害無益な「優劣決め合戦」じゃなくて相互の知的パフォーマンスを上げる手法で論争してほしいなあ、そういう場面見てみたいなー、と思う。




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