2011年6月2日木曜日

埋葬

埋葬 (想像力の文学)

三十歳前後と見られる若い女と生後一年ほどの幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、まもなく夫が手記を発表する。
〈妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった〉。読者の目の前で世界が塗り替えられる不穏な「告白」文学。







 
「あたしさー、”きょうかいファッション”が好きなんだよね」、と娘が言ってた。
そのセリフを思い出してしまった。
私は娘の言う”きょうかい”をずっと”境界”だと思って、なんか、境目の、端っこの、カテゴライズされない、交じり合ったファッション、だと思っていたのだが、「教会ファッション」なんだそうな。シスター風のファッション。なんだ、そうか。まるで想像しなかったよ、”教会”なんてさ。

でも、教会と境界も交差するところだよね、人と神様が、わたしとわたし以外が、それとそれ以外が、今といつか、が。


この本を読みながら、そう思ったことをぼんやりと思い出しては、息を吐く。
わたし、とわたし以外との境界、いまといつかの境界、それはなんだろうね。
薄い膜の入れ物に充填された内容物である「わたし」は、私とそれ以外とを、この膜で分けているけれど、この膜の外側も、ほんとうは「わたし」なのだ。「わたし」がいなければこの膜の外側も存在しない。
今といつかを分けるものも「わたし」である。
死がデフォルトで「生」は特異点。特異点の「わたし」が入れ子のように普遍やデフォルトを決めてゆく。はじめからそこには何もないのだけど。

そんな当たり前の、けれども当たり前すぎて忘れているあるいは忘れたふりをしている部分を、私に当たり前に広げてくる。その、たたみかけるような言葉の圧力増加にまた息苦しくなって読むのをやめて息をつく。窓の外を見る、整理する、想像する、そして想像に色をつける。先を読みたいような、でも読んだら確実に終わってしまう、それが惜しくて、ゆっくり、でも急いて読み進める。これの繰り返しである。

昔、「インド夜想曲」を読んだ、その感覚に似ている気もするけど、それよりも生々しく、私の皮膚とその外界、もしくは生活と妄想と創造の境界を、すべるように引っ掻いてゆくのだ。インド夜想曲のようなうっとりするような感覚ではなく、醜くて目を伏せたいものを突きつけてくるのだ、この物語は。

この物語について語れば、それはまるでちがう物語を語ってしまうような気がする。

”もの”って形(入れ物)と機能や内容物が一体となって、名前がつけられて、私はそれを認識するのだけど、私は、この本を読みながら、入れ物よりもまずその内容物に気がいってしまい、これって一体なんなんだ、と思ってしまった。(トリック構造は読みはじめたとたん分かったが、それこそがトリック、なのかもしれない。)細かく分析すると大きなものが見えなくなってしまうような、この、めくらまし的構造(入れ物)と内容物のレトリックに、ものすごく楽しめて思い出したいくないことまで引きずり出される。
最後は何も考えず、本の流れに意識を浮かべて読んだ。

こういう小説は好きだ。



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そういえば、私はGさんに、
「浮気はね、どこからが浮気なんだかって曖昧じゃないですか。でも、実際にそれをしたかどうかって問題じゃはないんですよ。私が”Gさんが浮気をした”と思ったら、それが私にとっての真実なんです。不安に思ったら(もうめんどうなんで)決め付けることにするから。逆に分らなければ、それははじめからないものなんですよ。そして突き通したうそは真実になるんだよ。」
と、言っているのだけど、この本にもそう書いてあるよ。たぶんね。

# あ、家庭内に不穏な空気は流れてません、念のため。

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