2011年5月2日月曜日

帰省から帰る


娘の帰りを待って、なんとか予定の新幹線に乗ることができた。
お弁当買って新幹線で食べようということで、娘「グリーンカレー」。
母「え。車両の中じゅう、カレーくさくなるよ。」
娘「あ!そういうことは買う前に言ってよ。」

母は、娘に「やっぱりピンク色のがいいよ。」と言われたので(ありがとう!)、1/4ロゼとサンドイッチとチーズと生ハム。

当日の朝、5時半起きで、その後家の掃除を一日かけて(単に休み休み)してた母は、その後うとうとした。




娘と二人実家に着いたのは夜の10時過ぎ。
実家に帰って、
いつもはワンワンと出迎えるジョニーがいないのを寂しく思いつつ、すぐ寝てしまった。

■■■
次の日もゆっくり起きて午前中も実家でまったりとする、母と娘。
我が家では新聞とっていないので、新聞を読んでみたり。
地震以降、広告がほとんど入っていないとのこと。
新聞の地方版には、今でも毎日80人くらいの県内で亡くなられた方の名前が載っている。
”訂正があります。○○○さんの年齢は1歳ではなく0歳です。”
などの文章を読むのがしんどい。

実家でも壁にひびが入ったり、外壁の角にひびが入ったりしていたけれど
住むのに支障は無いようで、まずは安心。
近所では瓦屋根の家の瓦が飛んでいる家が多い。屋根の峰(?)の部分。
道路にも陥没とか隆起があったり。
でもここらあたりは、被害はとても少ない地域だろうと思う。

メディアではあまり取り上げられていない地域の状況もひどいものだった。
仙台から南に走る東部道路の海側を父と見た。

道路一本渡っただけなのに、海側と山側では被災状況がまるで違う。
東部道路が防波堤となったということだ。
名取市の閖上より南の海、荒浜鳥の海は、私が小さい頃に泳ぎに行った海だ。
海水浴といえば、ここ。思い出がたくさんある。娘も小さい頃連れて行った。
(海に近い部分、被害がひどい地域へ行く道路は封鎖されていた)

海へ行く途中通る亘理町の信号機や電信柱は傾いでいたし、
田畑には木材や車やキッチンやよく分からないものが積まれていた。

もっと北の仙台空港の周りにあった多くの駐車場は、ほとんど無くなっていたし、
まわりの家は立っているけれど中はがらんどうで向こう側が見渡せた。
それらはもちろん、テレビやネットが伝える風景ではあったけれど、
実際に目の前にあるそれをみると、”復興”なんて言えなくなってしまう。
「これが、海沿いにずっと岩手まで続くわけでしょ。元通りになんてできるの。」
父も私も言葉がでない。

カメラを持って行ったけれど、
撮っても単にシャッターを押した私の画角の中には何も無いなと思い、
カメラをしまった。


ただの川べりに見えるけど、
流れ着いた細かいいろんなものが。
仙台空港あたり。
ひしゃげた車が積まれている。














せめて地元の好きな日本酒(一ノ蔵)の、前に買った美味しいやつを買って帰ろうと思ったけれど、
蔵元も被害に会い出荷できている種類が少ないということで今回は挫折。
(4/18から酒造り再開だそうだ。)


ひやかしに行くようで複雑な気持ちだったけど、
やはり見ないことには気持ちがおさまらなかったのだ。



0 件のコメント:

コメントを投稿