2010年11月18日木曜日

目標は、ごはんを美味しく食べよう。

出張3連荘ともなると洗濯物がたたまれずに山となっている。
家を建てたら、漠然と美しい生活が待っているような気がしていたのだが、それは妄想にすぎなかった。
定年後、がんばろう。(しかし、これもひとつの妄想。)

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食事時に、娘が、「人間、多面性が重要よね。」と言い出したのだが。
「いろんな意見があるわけだから、それらをまずは、全拒否しないで 受け入れることって大事だと思うの。自分の意見は、それらを受け入れて、かみくだいて理解してから作り上げればいいと思うの。」
「ほほう。それは人間の多面性とは言わずに、多面的なものの見方が重要よねって言ういい方だと思うよ。」
「うん、それそれ。自分の意見と違う意見はまず拒否っていう人がいるけど、それって違うと思う。そういう人の意見は聞いていていらいらしちゃうのよね。」
「うん、それもひとつの意見じゃない?私も多面的な見方って好きだな。そういうキャパを持ちたいよね。...」

以後、具体例の出し合いで、二人で議論はしばらく進んだわけですが。


母がその間、考えたのは別のことで。
つまりは、母もキミくらいの世代の時に、多面的な見方をする、多面的な見方をあえて探し(あえて逆に見)て楽しんだことを思い出し、キミは私の娘なんだなあと感じていたわけですよ。
でも娘の中に自分の片鱗を見つける時、目の前にいる娘は自分の娘であるという先入観から娘の中に自分自身が見える錯覚を起こしているに過ぎないのか、とかも考えたり。ふくざつ~。

娘がこのまま育つと、
今の自分(娘)自身を作り上げたのは他ならぬ”わたし”自身であって、”わたし”は環境から自分を育て上げる要因を選びとって、”わたし”を作ったのだし(”わたし”は環境要因と非線形な関係を持つ)、その”選び取る”という行為自体の中に”わたし”自身があるのであって、母親といえどもその環境因子のひとつに過ぎない...などという考えに至るのではないか。
母の中学時代の経験上...。
(そして”わたし”になる初めの一歩は、いったい素材か環境かいったいどっちなんだろう、とかって。)

娘よ、つめたくしないでね。

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明日もまた早い。
こんなこと書いてないで寝なければ。

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