2010年11月14日日曜日

役に立たない日々

母の読んでいる本を見て、
「役に立つ日々なんか人生のうち5日ほどもあればいいんじゃない?」
と娘は言うが、14年しか生きてないキミが何を根拠にソレを言うのだ?
無為雑多な日々こそ人生だよね。

喜びやしんどさなんかの意味を持たせたり、役に立たせようという機動力を生み出すのは、
人間の持ち味で、それゆえにこの感情ってヤツから逃げられない、救いも無いのも事実だ。
そして行き過ぎて本能が希薄になると人間はほろびてしまうだろう。(って佐野さんもたぶん書いてた。)

佐野さんは、潔いバアさんだな、私はこんな潔く年を取れないよ。
私はじめじめといつまでも生きることや意味にしがみついた、しみったれはバアさんになると思う。

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私は十八の時からわかっていた。夫婦生活の何十年かはとてもつらかろう、しかしそのつらさを持続する事は老後のためだけである。もう誰も華やぐ命なぞ与えてくれなくなった同士が、縁側で、「柿向きて云うこともなく」お茶を飲む日のためにあるのだ。
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これを読んだ時、これ書いたの私じゃないか?と思ってしまったほど。まったくそうだと思う。
でも私がこう思ったのは30歳も半ばで、もっと多くの時間とか経験が必要だったわけですが。
(そして佐野さんは2回離婚しているが。)

家を建てる時の私と娘の希望は
「縁側でお茶を飲みたい」
だった。これは将来のまったりした時間のためでもあった。
土間も欲しかった。
これは現在の生活上の作業スペースと忙しい日々の隙間でほっこりするためだった。
縁側が無くなったのは予算の都合もあるけど、
リビングに続きの縁側を作ったら壁がなくなりますよテレビとかオーディオ暖房の置き場所は?
という基本ワンルームの狭いこの家の構造面での課題を解決するためだったのだ。
つまりは現在の都合と希望を優先したのだ。

でも今だに縁側でお茶をすする、そして「イロイロあったねえ。」と言いあいたい希望は強くあるのだ。
人生の、最後の一滴のうまみ、もしくは甘いデザートというか。
そのためにはイロイロあってそれを乗り越えなくちゃならんわけです。
そして老後の縁側とお茶の楽しみを夢見るわけなんですよ。



佐野さんが、乳がんの転移が分かった時、
「あとどれくらい持ちますか?」
「ホスピス入れてあと2年くらいです。」
「いくらかかりますか。」
「一千万くらいです。」
「では延命も治療もやめてください。」

と言ってそのお金でジャガーを買ったそうだ。
ウツ病が無くなり人生が楽しく思えたそうだ。

楽しく思えたのか、または「楽しく思えた」と書くことによって楽しさを固定したのか。
そんなことを考えてしまう私は、やはりしみったれている。


昭和の潔いバアさんの本に出会えてよかった。




役にたたない日々

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