2013年8月20日火曜日

数学の想像力

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高校の時、解析や幾何の計算して解を求めるのはエキサイティングなのに、
なぜに、この証明ってやつはもやもやしてるんだろう、特にこの背理法ってやつ。
って思ってました。

この本を読んでなんだかすっきりした。

数学って定理でがちがちなイメージがありましたが、その「正しさへのアプローチ」の方法に
人間くささがあったんだな、と。

正しさを確信せる「証明」には以下の基本要素があるという。(音楽とも対比している)
 基盤 : 共通の世界に住み、共通の言語を話すという前提
 流れ : 修辞的論証・対話や、計算・計算手順などの論理過程
 決済 : 議論の落としどころ、往々にして直感的


最後の決済。
「見れば分る」から「見ても分らない!」無理数や無限小を扱わなければならない時、「見よ!」という可視化による証明の決済の仕方を決済を極力避け、様式美化した証明方法となった。
そこにはある、古代ギリシャの宗教に深く影響された時代思潮...。
このあたりの本書の、「正しさ」とはなんなのか、の語りが腑に落ちました。



数学の想像力: 正しさの深層に何があるのか












(メモ)
・古代ギリシャのピタゴラス学派の人たちは「演繹的証明」の方法を発展させた。
彼らにとって「証明」とは、もともと古代ギリシャにおける「宗教祭儀」であった。
地上世界の不浄な事物に惑われずに純粋な調和に満ち溢れた天井界とアクセスするために「見る」ことを極力排除した議論の形態、つまり形式的言語という基盤の上に展開された論証的数学の方法が重要であった。

言わば彼らの<祭儀>とも喩えられるその儀式的方法によって、彼らは「通訳不可能性」という新たな境地に至ったのである。
これらを背景に、背理法がある。

・「計算」と「証明」においては、その<正しさ>の意味が異なっている。

・アルキメデスは円の面積を「計算」したのではなく、「証明」、それも背理法によるいささか複雑な理論構造をもった証明によって得ていた。
計算ベースの<正しさ>証明による<正しさ>においては、それらを理解するうえでの「基盤」世界が異なっているのである。ギリシャにおける修辞的論証を重視する態度は、ギリシャ数学において首尾一貫したものであった。彼らは整数の性質を論じるときにおいてすら、これを線分などの図形量に翻訳して論証の舞台に載せる。見ることも計算するころもさけてすべてのことを演繹的証明という<儀式>によって行おうとしているのであった。

・実際、ニュートンやライプニッツによる「微分積分の基本定理」は無限小算術である微分と、面積や体積をもとめる積分が、算術としてお互いに逆演算になっているという驚くべき新たな対称性を数学にもたらしたのである。しかるにその「正しさ」は疑いようが無かったはずである。
問題は、その正しさを受け入れる「基盤」世界にあった。
いささか極言すれば、それは「信仰」の問題でもあったのである。


2 件のコメント:

  1. スケルツオ2013年8月21日 21:47

    哲学的センスを全く欠如してる私なんで、本の帯見てちょっと心配になっちゃいました。
    でも結構おもしろくて、ゆっくりと読み進めています。

    背理法の音楽の例として、ベートーベンの交響曲5番「運命」の1楽章があがっていたのにはしっくり来てないんですけど。。

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    1. スケルツオさま

      >ベートーベンの交響曲5番「運命」の1楽章があがっていたのにはしっくり来てないんです

      あ、私も。
      理系の人が音楽もやるっていうのは、なんか別系の理由があるような気もします。

      私も間に文庫本5冊を適宜はさみながら、ゆっくり読みました。

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