2011年10月25日火曜日

いっしょごはん

いつもの朝ごはんより早くになることもしばしばである。
けど「私も一緒に食べよう。」と言って娘は起きてくる。
一人でご飯を食べるのいやなのだそうだ。

私は中学生くらいになるとひとりでごはん、平気だったけどなあ。
むしろ気が楽だったかも。一人で考え事をしながらもぐもぐと食べる。
私の両親も共働きだったし、母は夜遅くまで働いていたので、両親の帰りが遅いとき
下ごしらえしてある夜ご飯のネタを仕上げて弟と別々に食るなんてことも多かった。
ふむ、だから自分の内側で考えるくせがついたのかも。
(今では考えるプロセスを省いて結果だけ人にしゃべるので、??という顔をされること有り。)
だから(?)、食事中(に限らず)ぽんぽんとしたリズミカルな会話は不得手なのだ。


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「ボク、仕事から帰ったら思考のスイッチを完全OFFにしてぼーっとしたいんですよ。家族としゃべるときってものすごくエネルギー要りますよね。もうしんどいんですよ。」
と言う同じ職場のTさん。
「ああ、それすっごく分る。私ももうしゃべらず頭の中だけで考えたりぼーっとしたりしたいんですよね。」
二人とも、それは立派な日本のおやじさん(←イメージです)。

いや、でもね。
娘と二人暮し始まったた当初、母は家でもがんばって定格の120%くらいでしゃべっていたのだ。
(娘には、あれで?といわれそうだけど)
家の空間を会話で満たそう、
母の思っていることや考えていることを伝えておこう、
たくさん会話をすることで娘の知識や興味を引き出そう、できれば知的レベルがあがらないか...
そんなことも考えつつ、がんばってしゃべっていた。

今はGさんがいるからとっても助かっている。節電モードな母に甘んじるのを許されている感じ。
Gさんと娘の会話はすごい。(ってゆーかこっちが普通かも)
あんたら、ちゃんと考えてる?と思うくらい反応でしゃべってないか、とか思う。
食事中、私の頭越しに会話している。私は間に挟まれてひとりもぐもぐしてる。

つまり結局何を言いたいかというと、
いっしょにご飯を食べて会話をするってことはとても家族的なふるまいだと思うし
いっしょにご飯を食べたいと思えるような関係って素敵だな、ということなんですよ。
会話するってパワーがいる。それを家族のために使いたいと思うことって素敵だなということなんですよ。
でももう、”がんばって”じゃくて、
ゆるゆると会話も間も楽しめるようになった..ような気がするがいかがか。(かなり強引なまとめだ)


先ほどのTさんも母も、
二人とも家に帰ったら、残った体力をエネルギーに変えて使って、
それがしんどいと言える幸せをかみしめるてんですね、きっとね。

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