2011年8月19日金曜日

お金の気持ち


学校、習い事、小遣い...お財布から諭吉が飛んでいく時には、ああ子供ってこんなにお金がかかるのね、と思う。子供にお金のことを心配させるのは教育上、子供の精神面上、良くないんではないか、とほんのちょっとは思うのだが、しかし私はそれを言う。「あなたがやりたいといったこと、欲しいといったことには、これだけかかっている。大事に使ってほしいし、無駄にしないでほしい。」

お金って、つまりは親の時間(若さ!)と労働とを引き換えに手に入れたものだ。
自分たちの生活のためではあるけど、それより多く、もちろん自分の趣味も含め子供の環境のためも考えて多く手にしたい。子供が成長するためだけなら衣食住、安全と健康に足りるだけのお金があればいいはずなのに、なぜ人間って「教育」「経験」「環境」をも自分の子供に与えたがるのか...。
人間だから??じゃあ人間ってなんだよ...

夏休み最後の平日に掃除機をかけつつ、そんなことをふと思った。

おや、ががーって掃除機かけてると、チャイがががーって真似鳴きする。面白い。

人間って(って一般化できるかどうかは全く分らないが、少なくとも私については)物理的な遺伝子以外に私(母)の経験やそれらをとおしての考え方、私が先祖から受け継いだ背景、そんなものも子供に引き継いでいってほしいと思っている。(これはドーキンスの言うミームってやつかもしれないが)
個人は子供をとおして、あるいは子供のいない人は各人の才能や考え方を書物や表現という形で、社会はその文化や習慣を、その構成員としての子供をとおして、残したがるのだ、たぶん。

自分の時間と労力をお金に変えて、それらで親の好ましい方向へ導くような教育をする、というのはこのためじゃないかと思う。教育論じゃなくて汎用的な人間の習性みたいなもの。きっとこのあたりはどこかで研究されているんだと思うけど、どのあたりですかね。(誰に向かって聞いてるんでしょうねえ。)動物行動論あたりか、文化人類学あたりか。

学生の頃読んだモリスの「裸のサル―動物学的人間像」を読み返してみる。裸のサルとは人間のことである。


芸術的、科学的を問わず、すべての探索行動においては、ネオフィリック(新しいものへの愛着)な騒動とネオフィビック(新しいものへの恐れ)な衝動との間に、不断の戦いが存在する。前者はわれわれを新しい体験に駆り立て、新奇なものにあこがれさせる。後者はわれわれを引止め、見慣れたものの中に逃げ込ませる。われわれはたえず、好奇心をそそる新しい刺激と、すでにおなじみとなった前々からある刺激という矛盾した誘惑の間でたえずゆれうごく天秤のような状態にある。( 第4章 探索)

子供はこのような過程を経て貴重な経験を手に入れ、成人する。そして子供のネオフィリア的衝動はたいへん強く、両親による制限が必要である。しかし両親は好奇心をうまく導くのに成功することはあっても好奇心を抑制してしまうことはできない...とある。(おなじく 第4章 探索)



子供の好奇心は、ある意味親という固体のエゴに沿って導く力と影響を与え合い戦いながら生活していく、ということか。子供の好奇心と親の希望(エゴ)が合致しますように、というエネルギーソースは絶えず親の心の内にわきあがっている。私たちの経験を受け取り飲み込み、残しつつ、生きやすいように少しずつカスタマイズしながら成長していってくれよ、というのが親の勝手な希望。そのために働いて金を稼ぎ、環境を整え、教育に使う。


娘よ、だから(?)お金は大事に使ってほしいし、無駄にしてほしくない。
お金は(それを言うこと、扱うことは卑しいものではなく)、対価だ。
何の対価?そして何に変えてく?
それを考えてほしいんですよ。

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