2011年1月30日日曜日

望みは何と訊かれたら

小池真理子の「」には持っていかれた。
それ以来、小池真理子は何冊か読んでいる。

この「望みは何と訊かれたら」は文庫本で610ページあるのだが、2日で一気に読み終える。とても面白い。そして少しの逃避にはとてもいいと思う。
タイトルが個人的にはいまいちだなと思っていたのだけど、この「望みは何と訊かれたら」は、映画『愛の嵐』の中で歌われる歌で、もともとマレーネ・ディートリッヒが歌っていた歌のタイトルらしい。(この映画、見てみたい。)


解説では、”殺意と愛情がせめぎあう極限状況で人生を共有しあった男と女ゆえの、根源的な結びつきと、身体も魂も貫く究極の悦楽を描き尽くした著者最高の恋愛小説。 ”とある。
1970年代、学生運動の頃、あさま山山荘事件の頃と同時期。主人公の沙織は、友人にさそわれたのをきっかけに参加した「革命インター解放戦線」の活動の果ての凄絶な粛清リンチから身ひとつで逃走する。そして当時19歳の吾郎に助けられ庇護され、半年間”飼育”されて生きる。食べ物も排泄も全てゆだねて生きること、その心地よさと悦楽、そこに留まること(留まりたいと思うことへ)の恐怖にからまれて生きる。
その二人の場所、あれは愛なのだろうか。愛は生きることの中に包含されていて、そして考えて体験して実感して喜び悩んでナンボ、が生きることだと思っている私にとっては、あの場は生きることですらない。もちろん、若い頃はその雰囲気に傾倒したかも知れないけれど。

確かに物語にはぐんぐん引きつけられるし面白い。物語のテーマにというよりは文章の語りにひきつけれられる。小池真理子の小説は、何が起きたのかといったテーマや物語の構造よりも、何をどのように感じ考えたのか、の語りに読み手が寄り添いやすいのだと思う。ある意味漫画や映画のように情景が広がるのでとても入り込みやすいのだ。戻ったりしない。考えたりしない。美しいと感じさせる情景や雰囲気に浸っているのがとても心地いい。

しかし、この物語の”愛”には、「」のような長い余韻を感じることはできなかった。


望みは何と訊かれたら






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