2011年6月5日日曜日

草むしり日和

朝、起きてチャイを放鳥したら、
窓際でじっとして、さらに細くなって、そして外に向かって威嚇しています。
なんだ?と思って窓の外を覗いてみたら、猫が...。
フンをし終わって土をかけているところです。
ああ、そこは先日水仙を植えたところじゃないか。
蝿が、ぶん、っと飛び回っています。

ここらはガーデンバリアの波が届かない一角です。
ついにこっちもか。もう一個買うかどうしたものか。
この超音波、私の耳にはほぼ聞こえないけど (周波数が変わるときにちょっと聞こえる)、
若者の娘の耳には聞こえて、うるさい、らしい。
猫にはばっちり利いているようで、
以前フンをしていたところは草がだいぶ生え(猫のトイレ部分は草、生えません)
よし、猫トイレを脱却!と思ってたのになあ。
いや。私は猫、好きですよ。でも猫トイレになった庭はくさいんですよ、とってもね。

ついでに庭の雑草を見たら、雨の後にぐんと伸びたようで、
もとから節操無い庭が、そのまま節操無さだけ成長してます。
思い切って草むしりを。ゴミ袋45L2つ。

......

高々、雑草。されど雑草。
それらが無くなったスキン地面はなんだかねえ、寂しいかんじ。


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テスト前の娘にメールが。
今年、受験して中学入った従兄弟が「学校のテストで学年3番だって~。うげー。」
ああ、あんたいっつも姉さん面して威張ってたもんねえ。

「なんかさ、これは何でだろうって考えると、進まなくなるんだよね。機械的に覚えればいいじゃんって友達は言うけどそれじゃ分んないでしょ。なんでこれはこうなったのか、とか、なんでテスト勉強するのか、なんで何のために大学行くのかって考えないで勉強するのって機械的に大学いくのって私だめなんだよ。」
と、娘が言うので、
「うんまあ確かに。目的とか動機って、モチベーションって大事よね。でも覚えることや、覚えたことの向こうに探す答えがある場合だってあるんだよ。覚えたこと、ずーっと分んないなあ~って考え続けることは決して無駄にはならんよ。考えるための土台が広がると思う。ちょっと我慢して覚えてごらんよ。分んないものはちょっと我慢して分んないまま考えててごらんよ。」
と、母の昔の事例を話したら、「はいはいはい、もうわかった。」って、
もういいって手をひらひらされました。


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amazonで本を二冊注文したら次の日の朝に届いた。
一冊読み始めて、ちょっと飽きて、別のを読み始めて、の平行読みになっている。
お口直しみたいだ。

2011年6月4日土曜日

I Masieri

最近気に入っている、ラ・ビアンカーラのワイン。この季節は白が美味しいね。
空けた瞬間、華やかな香りで、すっきり飲みやすい。あっさりめの食事にあいます。
夏はこれくらいの軽いワインを冷やして飲むのかいいよね。
タイバーネとはまた違う楽しみ方です。

「なんかさー、最近白が美味しくて。それもこういう軽いワインがさ。
ちょっと前まではこってりお肉と濃いいめの赤ワイン!だったのになあ。」
と母が言ったら、
「ちょっとー、やめてよ、年寄りくさいよ。」
と娘に言われた。


























La Biancara I Masieri 2009 (ラ・ビアンカーラ イ・マシエリ 2009)
イタリア・ヴェネト州産,ガルガーネガ80%、トッレビアーノ20%

ソアーヴェの隣のDOC地区である、ガンベッラーラでアンジョリーノ・マウレが1989年より7ヘクタールの畑とともに始めたワイナリー。ネットで1800円と、お求め安い値段です。

2011年6月3日金曜日

チベット大通り便り

燃やすゴミの日に、家中のゴミを集めていたらば、娘の部屋のゴミ箱から数学のテスト発見。
あら、このシチュエーションは前にもありましたねえ。
同じヤツか?いやちがう、点数が1点少ない...。
間違ったところを眺めてみると、ぼんやりと漫然と数字に向かっている姿勢が読み取れます。
問題に対して答えがこれってさ、
問題と答えを並べてみたらありえないでしょこういう間違い方は、という間違いです。

ため息をつきながら、他にゴミは無いかねと見渡すと。
...おや。
部屋を眺めると、夏の準制服のスカートの切れ端が...。なぜ切れ端が?
ああ、そうか。スカートを毎日ベルトで短くするんだったらと、切って裾あげをしてしまったらしい。
なかなかやるな、と思って裾をめくってみたら、
裾をかがり縫いしていないとか、その処理がまるでお粗末。(せっかくミシン買ってあげたのに。)

あのさ、母はね、制服を無断できってしまうこと、そのことよりも、
スカートの裾処理の雑さ、つまりは、娘の詰めの甘さ、そういうところがとてもいやなんです。

全てにおいて、詰めが甘い。
やるならちゃんとやれよ、と思います。


洋服が好きなら洋服をもっと大事にしなさいよ、とか、
「センスが」、とか言うなら部屋に対する美的感覚はないのか、とかね。


そんなことで頭いっぱいになってきちゃって、もんもんとして、
夕方、帰ってきた娘に「スカートを無断で切ってしまったこと」という
ポイントがずれたことをつべこべ言ってしまいました。
ほんとは、やると決めたならきっちりやれ、ということが言いたかったんですよ、よろしくたのむよ。

数学も、本当は仲良くできると楽しいからその楽しさを分って欲しいと思うけど、
向き不向きってあるからさ、でもそれ以外にも、数学は点数取れると便利なんだよ、イロイロと。


2011年6月2日木曜日

埋葬

埋葬 (想像力の文学)

三十歳前後と見られる若い女と生後一年ほどの幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、まもなく夫が手記を発表する。
〈妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった〉。読者の目の前で世界が塗り替えられる不穏な「告白」文学。







 
「あたしさー、”きょうかいファッション”が好きなんだよね」、と娘が言ってた。
そのセリフを思い出してしまった。
私は娘の言う”きょうかい”をずっと”境界”だと思って、なんか、境目の、端っこの、カテゴライズされない、交じり合ったファッション、だと思っていたのだが、「教会ファッション」なんだそうな。シスター風のファッション。なんだ、そうか。まるで想像しなかったよ、”教会”なんてさ。

でも、教会と境界も交差するところだよね、人と神様が、わたしとわたし以外が、それとそれ以外が、今といつか、が。


この本を読みながら、そう思ったことをぼんやりと思い出しては、息を吐く。
わたし、とわたし以外との境界、いまといつかの境界、それはなんだろうね。
薄い膜の入れ物に充填された内容物である「わたし」は、私とそれ以外とを、この膜で分けているけれど、この膜の外側も、ほんとうは「わたし」なのだ。「わたし」がいなければこの膜の外側も存在しない。
今といつかを分けるものも「わたし」である。
死がデフォルトで「生」は特異点。特異点の「わたし」が入れ子のように普遍やデフォルトを決めてゆく。はじめからそこには何もないのだけど。

そんな当たり前の、けれども当たり前すぎて忘れているあるいは忘れたふりをしている部分を、私に当たり前に広げてくる。その、たたみかけるような言葉の圧力増加にまた息苦しくなって読むのをやめて息をつく。窓の外を見る、整理する、想像する、そして想像に色をつける。先を読みたいような、でも読んだら確実に終わってしまう、それが惜しくて、ゆっくり、でも急いて読み進める。これの繰り返しである。

昔、「インド夜想曲」を読んだ、その感覚に似ている気もするけど、それよりも生々しく、私の皮膚とその外界、もしくは生活と妄想と創造の境界を、すべるように引っ掻いてゆくのだ。インド夜想曲のようなうっとりするような感覚ではなく、醜くて目を伏せたいものを突きつけてくるのだ、この物語は。

この物語について語れば、それはまるでちがう物語を語ってしまうような気がする。

”もの”って形(入れ物)と機能や内容物が一体となって、名前がつけられて、私はそれを認識するのだけど、私は、この本を読みながら、入れ物よりもまずその内容物に気がいってしまい、これって一体なんなんだ、と思ってしまった。(トリック構造は読みはじめたとたん分かったが、それこそがトリック、なのかもしれない。)細かく分析すると大きなものが見えなくなってしまうような、この、めくらまし的構造(入れ物)と内容物のレトリックに、ものすごく楽しめて思い出したいくないことまで引きずり出される。
最後は何も考えず、本の流れに意識を浮かべて読んだ。

こういう小説は好きだ。



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そういえば、私はGさんに、
「浮気はね、どこからが浮気なんだかって曖昧じゃないですか。でも、実際にそれをしたかどうかって問題じゃはないんですよ。私が”Gさんが浮気をした”と思ったら、それが私にとっての真実なんです。不安に思ったら(もうめんどうなんで)決め付けることにするから。逆に分らなければ、それははじめからないものなんですよ。そして突き通したうそは真実になるんだよ。」
と、言っているのだけど、この本にもそう書いてあるよ。たぶんね。

# あ、家庭内に不穏な空気は流れてません、念のため。

2011年6月1日水曜日

食卓にあがった放射能

1泊出張。学会で発表。
発表は緊張もせずに終えたけど、長時間新幹線乗ってオシリがいたい。
(もう眠いので、誤字脱字はおいおい直す。)

講演の中に福島の原発事故についての特別セッションがあったので、聴講した。
後援は日本原子力技術協会最高顧問 石川氏。
原発推進派ということらしい。(私はそっち方面は詳しくないので分りませんが。)
事故の経緯の説明、安全性について(多様性と信頼性の両立)、設計要求仕様の考え方、などの話があった。チェルノブイリまで考慮されていなかったと言われてきたヒューマンI/Fに加えて、今後は地球とどのようにI/Fをとっていくのかも考えなくてはならない、とのこと。

米国のスリーマイル島原発事故の事例から、炉心は燃料が形状を維持せず圧力容器下部に崩れ落ちた状態であることは早い段階で推定できたはず、としている。事例と実験・原理を目の前の状況にマッチングする能力が今のエンジニアには欠けているのではないか、と、言っていた。原発の黎明期・立ち上げ期、と、維持期の現在とでは、エンジニアに求められる能力や経験値も違ってくるし、この非常時において働かせなければならない能力のマッチングの問題もあるのではないか、と、聞きながら思った。
氏は、現在は非常時であり、平時の基準で対処していたら、事は遅れるばかりだと言う。20~100mSvであればそれほど人体には被害が無い、という...。(ほんとか?)


そういう考え方もある一方、基準値は最悪ケースを想定し、それでも安全率をかけるくらいの値にすべきという立場をとっているのが「食卓にあがった放射能」。本書を読むと20mSvがどれくらいか、野菜の放射能基準の2000ベクレルがどのあたりに位置するのかが分る。(タイ、フィリピンなど東南アジアの輸入基準は540ベクレル以下と低いし、シンガポールはどんなレベルの放射能も許さないという立場をとっている。)
基準値とは、ここまで摂取してよいという値ではなく、摂取しないほうが良いのはあたりまえ。
特に単位あたりのベクレルではなく年間摂取量として考えなくてはならない。主食は、ベクレル数が低くても要注意だ。

多くのデータ(主にチェルノブイリに関するデータ)が掲載されており、1冊読むと、ベクレルとシーベルトの巷で言われている値がどれくないなのか、という感覚がつかめる。


さまざまな数値があって、どれが本当に安全な基準なのか分らない。
(そもそも精度の良い測定器は効果で個人では持てないから、測ることも出来ない。)
立場違えば値の評価の仕方も違う。結局は自分で決める、しかない、のだと思う。


食卓にあがった放射能












メモ:値は1990年当時のもの。変更されたものもあるかもしれないけど調べてない。

【放射能の単位:ベクレル】1秒間に1回原始が変化する(壊れる)ことに相当する放射能量。
【被爆線線量:シーベルト】放射線が人体の体の単位質量あたりでどれくらいのエネルギーを失うか。
(α、Β、γ、中性子線では人体の化学結合に与える影響に違いがでる。)

【ベクレルとシーベルト】
・被爆線量(ミリシーベルト)=線量係数×放射能摂取量(ベクレル)
線量係数: セシウム137 1.4、セシウム134 2.0、ヨウ素131 1.4(経口)  0.89 (吸入)

・職業人の年間放射線限度にあたる50ミリシーベルトの被爆を受けた場合のがん死する確率
(本には計算方法記載)
国際放射線防護委員会(ICRP)の評価では1/2000
ゴフマンの評価では1/50(50人の労働者に一人が毎年死んでゆくことになる)
→大きくばらつく

・輸入食品 暫定基準値 370ベクレル/kg
・チェルノブイリ原発事故語の諸外国における食品放射能に対する基準値
→日本の基準は諸外国と比較して高い。
・汚染は干ししいたけ、ナッツ類に蓄積しやすい。
・事故後、放射能期待への放出後いったん低下するが、数ヵ月後に水、土壌汚染からの吸収があるため再び増加する。
・特に主食の米・小麦などについては年間摂取量が多いため、kgあたりのベクレル数が小さくても要注意。