2011年5月11日水曜日

レッスンメモ3

3回目のレッスン。今日も雨。
いや、私は雨女じゃありませんから。

シマンドル、P22,23まで戻った。
見開き2ページ、ほぼ毎日練習していたが音符を追うのでいっぱいいっぱいだった。

(注意点)
・アップとダウンの弓のスピードが違う。アップの法が強くなる傾向にあるので同じ調子で弾く。
・音が変わるとき、指の動きと弓の返しのタイミングが少し合わない。
指の準備ができない無いタイミングで弓を返すので、音が混ざってしまう。
指の押さえの準備ができてから、弓を返す。(わずかのタイミングの違い。)
教則本は、運指の間違いは気にせず、音や音の変わり方の音そのものに注意をはらう。
・来週はP19(4♭が5つもあるorz ,5)、P20(6,7)をやってくるように。
ポジション移動の練習です。(このまま最初に戻るかも(笑)。)

宿題ちょっと多すぎますと、言ってみたけれど...。


シマンドル 30エチュード 1番
・低音(D,E弦)を使っての付点8分と16分音符を弓を返さずに弾くのがどうしてもできない。
(この練習曲の山場)
・この16分音符は、くっきり明確にと、しかも、重くならないように。
・来週へ持ち越し。
・来週は2番もやってくるように。

先生方には教え方に特色があって、どちらもなるほど感があるのですが、
このまま、オケの先生の方でレッスンを受けることにした。
様子を見ながら、ジャズの先生も復活していくかもしれない。(発表会があると張り合いがありますし)
もう少しお金と時間があれば...。

2011年5月10日火曜日

今朝みた夢。


寝ていたら、ベッドの下からゴキブリが見えた。
叩いてつぶそうとしてもなかなか死なない。
そのうち3匹になり、1匹に腕をかまれた。
ふと見上げたら、家の壁の中にまだ肉片のついた骸骨が埋め込まれていた。
壁なのに、骸骨のまわりだけ樹脂で固めてあった。
夢はカラーだった。

怖くて目が覚めた。


よって今日は眠い。

2011年5月9日月曜日

アブダクション

たれぱんだ的と言われたGさん曰く。
「でも、たれぱんだでいることは案外難しいんだよ。
 まず、たれぱんだでいられる場所を見つけなくてはいけない。 これがまず難しい。
 たとえば、このおふとんの上、ここはイイ。たれていられる場所なんだよ。」
と、(ダレて)言ってます。
(いや、Gさんがたれていられるのは、
私のキャパの大きさがあってのことだろう、と、こっそり思ってみる。)

お、急に動きが早くなったかと思いきや、
「たれぱんだVSめかたれぱんだ!
  ばばーん!
...でもとくにたたかわない。」
と再びたれるGさん。ココロは小学5年生。←って本人も納得してたよね。

■■■
G.W.も終わり、仕事も始まった。

ところで。
現場第一主義の方というのはどこにもいると思うけれど、そんな方々、だきあわせのように数値実験(シミュレーション)に懐疑的な人が多い(のではないか)。そんなおもちゃみたいなやつで、とか。そんなこともあって数値実験の有効性を分かってもらえる説明の仕方というのはないだろうかと、時々考えてみたりする。
例えば私は、仮説を立てる時に、帰納法と演繹法のハイブリッド的な思考がしっくりとくる。しかし、帰納法的に事例や結果から法則を導き出す場合、材料となる事例の数はそう多くない。そこにシミュレーションを適用することで(経験の加速)多くの仮想事例を得られるとすれば、そこから導いた法則(仮説)
の妥当性を今度は実験で検証するという(実験とシミュレーションのハイブリッド)方法論が説明できないかな、などと考えて、ぐーぐるさんに手がかりを探してみたら...、

アメリカの哲学者・論理学者のチャールズ・パースが推論過程の一つとして再定義した言葉、アブダクションに行き当たった(私が知らなかっただけで3つの推論様式として有名なのだそうだ)。アブダクションは帰納法と比較して創造性の高い拡張的推論ということみたいだ。つまりは、法則性を導くからもう少し思考の飛躍があり、既存の法則からひらめきや創造へとつなげることなのだろう。

この、法則性の検証からひらめきへ飛躍する瞬間ってどんな状態なのか。
脳の自発活動、ノイズともきっと関係があり、ランダムノイズがあるタイミングで事象と法則を結びつけるんだろうなあ...、などと考えて一日終わった。
おい、仕事しろよ。>自分




帰納・演繹・アブダクション:
パー スは推論という作用を演繹(deduction)、帰納 (induction)、仮説形成の三つに分け、規則と事例から結果を導きだす推論である演 繹、事例と結果から規則を導きだす推論である帰納に対し、規則と結果から事例を導きだす遡及的推論型・仮説形成型の推論をアブダクション (abduction)とした(この用語自体はアリストテレスが分析論に用いたApagogeをもとに造語したものである)。また、パー スは、帰納も演繹も実はアブダクションにもとづいたもので、3つの推論方法は本来は総合的にはたらき、何かを発想したり、思考を始めると きには 先ずアブダクションをし、仮説を形成しながら推論しているとした。アブダクションは、東洋の思考法に多く見られる傾向であり、西欧で比較的多く見られる二 元論的な思考論理の限界を認識するという意味でも興味深い論法である。(http://i.impressrd.jp/e/2008/02/01 /362)

2011年5月8日日曜日

休みの終わりなのか始まりなのかの土曜日のもうひとつ。

昨日はもう一本DVDを見たんだった。
娘より提供の「シド・アンド・ナンシー」。TSUTAYAで借りたうちの1本。
セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ビシャスとその恋人ナンシーの短く過激で破滅的な愛、ということらしい。

朝いちで、娘がなにやらDVDをセットしてるなと横目で見つつ、ついでに朝ごはんもセットできた頃、画面はシドがナンシーの編みタイツを破ってこれから濡れ場へ突入、という場面だった。

「ねえねえ、これ見ながらら二人で朝ごはんってなわけすか?」(Gさんはもちろん睡眠中)
と母が聞いたら、
「そ、そうっすね~。朝のさわやかさとはちょっとちがうよねえ。」
と、娘はDVDを停止し、ニュース番組を見ながら和やかに朝ごはん。

そんなわけで、夜ごはんの後、3人で見ました。
濡れ場もあったけれど激しくなく、しかし決して美しくもなく、けれどこういう二人の状態を悲しく美しい愛というとらえかたもする時期があるかもなあ.....ああ、この二人って共依存というやつなのか。二人で依存しあってセックスと薬におぼれてゆく姿を悲しいとだけにしか思えないのは、私が母となったからなのかもしれないね。弱さを見て美しいと思えれば安心できるのかもしれない。そして絶望へ落ちてゆく悲しさから目をそらすことができなくて最後まで見てしまった。(しかし、ナンシーはもう少し美人でもよかったのではというのが3人の共通した感想。)

娘はどう感じただろう、と思って目を娘のほうにやってみたらば、寝息を立てて寝ておった(笑)。

映画が終わってエンドクレジットが流れる頃、
アトムの毛布の下からむっくり起きた娘に、もう寝たらと促すと、
「私、寝てないよ!」
「いやいや、ごうごう寝息立てて寝てたって。」
「...でさ、話はどうなったの?」



■■■
以前、YouTubeで「Tanti Anni Prima」をチェロで弾くStjepan Hauserを見て、ああカッコイイなあと思ってブックマークしてたんですが、あれ、いつのまにか非公開になってしまってもう聞けない、残念。(Stjepan Hauser:クロアチアのチェリスト、1986年生)

顔というか雰囲気がねえ、好きです。


向かって左。
若い頃よりも、少し年を取った今ほうが
断然カッコイイ。









いろいろ探してみるうちに、マイケルジャクソンの「Smooth Criminal」のチェロ演奏が
一時話題になったらしく(クラッシック詳しくないGさんも知ってたくらい)、聞いてみたり。
 http://www.youtube.com/watch?v=OlVbEclPj4c&feature=player_embedded

有名チェリストのモノマネ映像とかをぷぷぷと笑いながら見てみたり。
http://www.youtube.com/watch?v=hC5TQqW44dY

2011年5月7日土曜日

La vita è bella

雨だし娘は部活と習い事だし、GさんとDVD鑑賞会。

Gさんから提供、マイケルジャクソンの「ライヴ・イン・ブカレスト」。
92年(私が就職した年だ!)、ルーマニアのブカレストでのライブDVD。有名なライブらしい。
DVD見てたら涙する人失神する人が何人もいました。
さすがのエンターテイナー。私ごときがなにやら書くこともできないのでamazonのレビューを。
「THIS IS IT」のように演出裏話も知りたいなと思っちゃいます。
THIS IS ITには、マイケルファンではない私も、静かに感動しました。



私からは「ライフ・イズ・ビューティフル(伊題La vita è bella)」。
私が最も好きなイタリア映画。ラストシーンではやはりしゃくりあげてしまう。
生きててなんぼ、です。
この映画のことは前のブログでも何度か書いてました。
イタリア映画でもう一つ好きなのがロベルト・ベニーニの「Life Is Beautiful」
生と死、残酷さと美しさ、対極にあるもののを飲み込んでそれでもなお、暖かさを感じる映画です。
グイドはあたりまえに自分の命を息子ジョズエにつなげた。
(ジョズエに対する嘘のつき方が見事なのだ。息子が悲しみや不安を感じさせない嘘である。)そしてジョズエの天真爛漫の笑顔のラスト。それを見て感じたのは父グイドが伝えた、生きている(生かされている)喜びと感謝である。
他人である誰かの感動のためでなく、自分の息子ジョズエの喜びのためである。


そういえばGさんの日常は、自他共に認める、たれパンダ的生態なのですが、いざというときには、この映画の主人公のグイドのように私たちを笑いで救ってくれるに違いないと思っています。(思い込まなくちゃ..。)
よろしく頼みますわー。